行くところがだんだんなくなっていく
十五年ほど前にリタイアしたときは、愛車を駆使して全国を走り回ったし、友達と海外に行ったりした。それとは別に中国には一人で行った。当時は民主党政権時代が重なり、その施策の一つ、高速道路の大幅割引があって、これには大いに助けられた。記憶に残る唯一のよい政策だった。とはいえ少しずつ使うつもりだったささやかな蓄えや退職金は瞬く間に半減して、いい加減にしないと先が見えてしまう事態になって焦ったものだ。
京都にもよく行った。朝早く出て一日歩き回り、夕方大阪の友人と待ち合わせて飲んで新大阪や天王寺に泊まり、元気がよければ翌日は大阪を少し歩いて名古屋に帰った。最初は京都巡りはとても楽しかったが、次第に観光客が増えてきて、大好きな哲学の道の散策も、人混みの中を歩くようになっていった。周りから聞こえるのは日本語ではなくて中国語である。日本人も多いけれど、中国人は声が大きいので、中国人だらけのように感じてしまう。彼等は周りに気を遣うという習慣がないから、人通りで立ち止まったりして邪魔になっても気にしない。行きたいところはほとんど歩いたし、バスも混み始めたし、渋滞もひどくなって時間が読みにくくなったので、京都歩きはやめることにした。それがオーバーツーリズムを実感した最初の経験だ。そのあとさらにひどくなったのだから、ますます行く気にならない。
そのあとは奈良を歩くようになった。行く場所を決めて、一日かけてその周辺を歩きとバスで訪ね歩いた。飛鳥路など、三回か四回歩き回って、いにしえを偲んだ。それもコロナ禍以来、足が遠のいてしまった。今年兄弟で久しぶりに訪ねて、やはり奈良はいいなあと改めて感じた。幸い奈良公園周辺以外はまだオーバーツーリズムにはなっていないが、多分時間の問題だろう。高山や白川郷など、以前はいくらでも車がおけてゆっくり散策出来たのに、今は観光バスがあふれかえり、人でごった返している。
だんだん行くところがなくなっていく。それはもう行ったことがあるからよりも、オーバーツーリズムによるところが大きい。思ってもいないところが混んでいて、宿が取れなかったり、泊まるのを逡巡するほど高くなったりしている。こういうことも外国人に反発を感じる一つの要因になっているかもしれない。
なんとかそれでも観光地ではなくて、それなりに心にしみる場所を探して旅をしたいものだと地図を眺めている。
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京都大原


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