被害者を非難する
子供たちが日曜日にやってきたので、その受け入れ準備と歓談でかなりのエネルギーを費やした。楽しいことであってもこの歳になるとかなり疲労する。しかしそういうことがないと人生は平坦に過ぎて、生きている意味が見えなくなる。
一日を疲労回復に当ててぼんやりし、昨日からは元の日常に戻るためにネジを巻き直した。さいわい涼しくなってしのぎやすかったのはありがたい。毎日少しずつしていたお勉強もお休みしていたのでちょっとペースを上げて遅れを取り戻しつつある。Eテレの高校講座で録りためたものはすべて視聴した。放送大学は特別講座がたくさん放送されたので、おおむね録画して保存した。これはぼちぼちとみていくつもりだ。今は『初歩からの物理』『ダイナミックな地球』『クリティカル・シンキング』の三講座を勉強中で、今日はそれぞれ第九回を受講した。
『初歩からの物理』では電磁気学と電気工学について。苦手な分野だ。しかし現在のさまざまな実用分野は、この理屈が応用されていて、少しくらいはそのメカニズムを知りたいと思い、つい眠くなるのをこらえて最後まで見た。『ダイナミックな地球』は、前回は海洋の循環についてであった。その続きとして、今回は大気循環と気候に関連した講義で、こちらはかなり専門的ながらおもしろかった。モンスーン気候のシステム的な理解、そして温帯性低気圧のもたらす気候のシステムなど、天気予報の理論的背景のようなものをちょっとだけ知ることができた。
『クリティカル・シンキング』では認知バイアスの克服の第二回。自分の中の偏見や差別について、メタ認知的に理解するよう努めることが大事であることの意味を理解した。人が起こす認知バイアスの実例が多数紹介されて、たいへんおもしろかったが、その一つとして、「被害者を非難する」という実例が興味深かった。何かの被害に遭った人に対して、しばしば被害を受けるにはそれなりの理由があったに違いない、という意見が寄せられるのを見ることがある。因果応報とか、自業自得、などという言葉でかえって被害者が非難されることは案外多い。詐欺被害などはその典型だろう。私もときにそう考えてしまうことがある。
しかし被害というのは個別にさまざまな事情が絡んでいて、確かに被害者に問題がある場合もないではないが、多くは被害者にとって理不尽なことであって、非難されるようなものではない。どうしてしばしば被害者が非難されるのか。それはこの世の中が公正である、あって欲しい、あるべきだ、という強い思いがあるからだという。そう思うことが心の平安につながってもいる。それは人間の防御的な心の働きなのだという。現実には世界は不条理に満ちている。悪いものがのさばり、弱者が不利益を受けている。しかし、人はそれをなかなか受け入れられず、そういう不利益は不利益を受ける理由があるからだと思い込もうとする。時に自分の不利益すらそのように考えて受け入れてしまうことがある。
講義ではもっと論理的にわかりやすく説明されていたが、それを反芻しようとしたら、自分でも納得できないような下手くそな説明になってしまった。まだまだ勉強が足らない。ほかにステレオタイプなどについても語られていた。先入観、第一印象など、直感的な知覚がまずなされるが、それは次第に関係を深めることで補正されるべきものである。それには時間がかかる。まず自分がまだよく知らない状態で直感で見ていることの自覚が必要だというのは、当たり前のようだがついおろそかになることであって、大変よくわかる大事な注意点であろう。
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