『二流の愉しみ』
山本夏彦の『二流の愉しみ』(講談社文庫)を読了した。引用したいところが山ほどあって、しかしそれはわかるひとにはわかってわからないひとにはわからず、多分わからないひとの方が多いはずで、それならたいていの人にはくどいだけになりかねない。それを承知であえて一つだけ引用する。(これが山本夏彦流のまね・下手すぎて恥ずかしいが・・・)
私は各人に個性があることを前提とした教育は、間違いではないかと疑っている。人は個性ある存在ではない。人は大ぜいに従うもので、従ってはじめて安心するものである。従えと言って、断じて従わぬ個性はまれである。万一あれば大ぜいは、世間は、社会はそれを爪はじきする。すなわち、爪はじきされて、はじめて個性は頭角をあらわす。ちやほやされて育つ個性なんて、今も昔もないにきまっている。
巻末の書評として、やはり私の敬愛する向井敏が『勁直と叙情』という短文を寄せている。ここに山本夏彦の魅力が語り尽くされている。まえがきにつづいてそれを語るために、永井荷風について語った山本夏彦の文章を引用して話を進める。
荷風は今も読まれこれからも読まれ、日本語がある限り読まれるのは、ひとえにその文章のせいである。その文章は「美」である。荷風は日本語を駆使して美しい文章を書いた最後のひとりである。おお、私は彼を少年のころから今に至るまで読んで、恍惚としないことがない。些々たるウソのごときケチのごとき、美しければすべては許されるのである。
そして向井敏は永井荷風についての意見に同感するとともに、この文章に異存があるという。荷風は「日本語を駆使して美しい文章を書いた人」には違いないが「最後のひとり」ではない、余人はさておき、現に山本夏彦がいるではないかというのだ。その「口跡を借りれば」、この人の文章もまた、しばしば恍惚として読む人を酔わせると。
人を酔わせるというその証拠の一つに、山本夏彦の文章に接したあとでものを書くと、それと知らぬうちに、この人独特のキリリとして歯切れのいい語調をまねてしまっているということがある。(By 向井敏)
と記した後にどんなときにどのように影響を受けたかを例を挙げて語っていて、それは私も大いに共感する。
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