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2025年12月

2025年12月31日 (水)

来年もよろしくお願いします

 ほとんど毎日、つたない文章でブログを書き続けてきましたが、読んでくれる人が途切れなく続いていることを、大変ありがたいことだと感謝しております。

 

 一年間ありがとうございました。

 

あちこち車で走り回るのを楽しみにしていますが、行った先の寺や神社や古跡を、目にとまったついでに立ち寄ってきました。それらはその都度の断片的な記憶に残るだけでしたが、日本の歴史を改めて学び、それらの流れやつながりを意識し始めたら、あらためてもう一度系統立てて訪ね歩きたくなりました。今年は縄文から古代の日本について、おもに東北を走りました。思いのほかおもしろく、ますます興味がわいてきました。それらの断片が少しずつ関連性を持ってくるのが喜びです。来年もそれを続けたいと思っています。

 

 では来年も引き続きよろしくお願いします。

 

 そして皆様のご健勝をお祈りするとともに、来年が良い年でありますように!

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バリ島で見た落日

 

『日本の面影Ⅱ』

 今日はついに今年最後の日、大晦日だ。一時体調を崩してどうなるかと思ったが、後期高齢者モードへの最後の脱皮だったのかもしれない。痛くて寝ることもできなかった右肩の痛みも、解消とまでは行かないが生活に支障がないくらいには恢復した。

 

 年末になって読書への集中力が復活し、若いころのようにハイペースで本が読めている。集中力があるだけ読みも深くなるからありがたい。ただしハイペースが過ぎると上滑りする。読了した『日本の面影Ⅱ』は、ラフカディオ・ハーンの『見知らぬ日本の面影』を池田雅之が抄訳、意訳したもので、全26編のうち、11編を『日本の面影』として出版したが、さらに追加して訳してほしいという強い要望のもとに、15年後に10編を訳してまとめたものだ。

 

 この中では『日御碕(ひのみさき)にて』や『美保関にて』が、わたしも好きな場所であり、二度三度訪ねて思い出が深いから、情景がリアルに思い浮かんだ。また行きたくなる。兄弟を連れて松江や出雲を見せたいと思う。十五年ほど前、日御碕では、大きな駐車場の前の、売店のおばあさんが姉妹で営んでいる民宿に飛び込みで宿を取った。その夜体験した夜の恐怖が未だに忘れがたい。何が怖いというほどの、何もなかったのだけれど、とにかくあれほど夜が明けるのが待ち遠しかったことはない。私は怖がりであるけれど、それだからかいろいろなものに感応する。何かを感じて闇が怖くなったのだ。

050429050502-083下の売店の民宿

 ラフカディオ・ハーンが松江にいたのはわずか一年と三ヶ月であった。その後熊本、神戸、東京都移り住み、東京で亡くなる。妻セツとのあいだに三男一女をもうけた。彼が帰化を認められ、小泉八雲となったのは、来日してから六年目だった。小泉はセツの旧姓で、「八雲」という名は、あの須佐之男命が歌った、「八雲立つ 出雲八重垣・・・」からとっている。この本の中にも『八重垣神社』という一編がある。縁結びの神らしい。縁結びは願うつもりはないが、まだ訪ねていないので一度行きたいと思っている。

050429050502-093日御碕神社の門

050429050502-092素戔嗚尊の社

 後半部分は小泉セツが『思い出の記』として小泉八雲を語っている。八雲とセツがどれほど心を通わしていたのか、それがよくわかる。かなり神経質だった八雲を、ここまで受け入れて愛し抜いたセツに出会えて八雲は幸せであっただろうと思う。八雲はセツを妻として、そして幼い時に生き別れたまま二度と会うことがなかったギリシャ人の母親を慕う気持ちから、セツに母親のように甘えたのだろうと思う。

2025年12月30日 (火)

『落語手帖』

 江國滋(編集者でエッセイスト)の『落語手帖』を読み返した。どんどん横から割り込む本が増えるので、収拾がつかない。この本もかなりくたびれてきたから処分しようと思っていたのだが、読み終わったら惜しくなった。いつかまた読もうと思って捨てるのをやめた。

 

 わたしもこどものときから落語が好きで、ラジオでよく聴いた。高校生の時、担任の教師が落語が大好きで、テープのコレクションを聴かせてもらった。三木助の『芝浜』を聴いて感激した。わたしが好きなのは圓生で、CDのコレクションを持っていて、ときどき聴く。

 

 『火事息子』という落語について、火消しになってしまい、勘当した息子とその両親の気持ちを分析して文章を書いたことがある。聴けば聴くほど、味わえば味わうほど落語の奥深さを感じたものだ。この『落語手帖』でもさまざまな話が紹介されていて、その中にこの『火事息子』が取り上げられていてそれが嬉しい。もちろん江國滋のほうが私よりもずっと深く味わっている。さらに『鰍沢』という、笑いというよりも怪談風の雪の中の恐怖の話が取り上げられていて、語りからどこまで情景が詳細にかつリアルに想像できるか、語り手だけではなく聞き手によってレベルが違うことを教えてくれる。

 

 ほかにもたくさんあって、そうなるとその落語がまた聴きたくなるではないか。だからこの本が捨てられなくなった。江國滋は、この『落語手帖』をはじめとして落語三部作を書いて、落語評論家、などと言われたことにつむじを曲げ、二度と落語に関する本を出さなかった。彼は評論などするつもりが毛筋ほどもなかったことは、この本を読めばよくわかる。

紙を捨てていく

 状差しが満杯(かなりたくさん入る)になっていたので、残したい一部を残して捨てていった。手紙や領収証や役所その他からのさまざまな書類がある。領収証は直近のものだけ残し、破って捨てる。最近は領収証のなくなったものも多いから、昔より少ない。手紙類も厳選する。役所からの書類には年金や税金、保険その他に関するものがかなり大量にあったので、これも厳選して捨てる。証券会社からの書類もたくさんあった。それもほとんど捨てた。現役時代に勤めていた会社の株を持っていたが、今年ついに思い切って売却してしまったのだ。株はそれしかなかったから、もう証券会社とは縁がなくなった。現金にしたから少しゆとりができて、だから秋口から少し財布の紐を緩めたが、ゆるめすぎて、いまは月々の引き落としの請求額に驚いている。

 

 状差しが済んだので、机の引き出しの中の書類を片付けた。ここには特に大事なものを入れてあるが、すでに不要なものも少なからずあった。そこまでで午前中いっぱいかかってしまった。ほかにも整理したい紙封筒に収めた分厚い包みがいくつもある。さらにあちこちに分散していた分類しようのない紙や書類、旅先で集めた資料やパンフレット類が大きな段ボール箱に放り込んである。これを午後のうちに片付けるつもりだが、終わりそうもない。それに、人力シュレッダーもいささか疲れた。窓拭き掃除もしたいのだけれどなあ。本でも読もうか。

不安

 年末の挨拶で、来年が良い年でありますように、と申し上げている。縁のあった人が健康で大過なく過ごせることを、心から願う気持ちからそう申し上げている。

 

 しかしながら、今年の延長である来年がどうであるか想像すると、理性があるとは思えない大国や中小国のリーダーたちが、世の中をかき回して混乱に陥れている状態が、来年になったら改善するとはとても思えず、悪化するようにしかみえない。

 

 自分の引き起こした混乱の収束を、落とし前をどうつけるつもりなのか聞きたいところだが、日本を亡国に導いた人たちがそんなことは少しも考えなかったように、彼らも考えていないし考えるつもりもないようだ。

 

 最悪に備えることが必要かもしれない。最悪どんなことが起こりえるのか、そのことを想像しておくということである。備えるというのはその事態を覚悟しておくことで、どうにかするなどということは多分誰にももうできないのだろう。それにしてもテレビを眺めていると、マスコミもそこに呼ばれた有識者も、多くがお花畑の中にいるように見えてしまう。能登守教経ではないが、おかげさまでわたしはもう見るべきものは見た。なるようになって行くだけだろうと思っている。そう思えない若い人たちは不安だろう。彼らだけが現実を実感しているようだ。

2025年12月29日 (月)

大切なものの値打ち

 後生大事にしていた本を処分している。一度二度読んではいるが、もう読み返す気にならない新書や文庫本は思い切ってそのまま捨て、名残にもう一度だけ読もうと思う本を積み上げて、片端から読み進めている。そこでどうしても捨てられない本を残し、それ以外はやはり捨てる。新書や文庫はほとんど古本屋でも値段がつかないから、捨てるだけである。そればかり読んでいるわけではない。じっくり腰をすえて読んでいる捨てるつもりのない本もある。さいわい今までになく読書に集中できているので、ハイペースで処分する本の山が積まれていく。

 

 手帖類を残していて、その記録をまとめてから捨てようと思っていたが、未練だと思うようになった。まとめたものを誰が読むのだろうか。自分にとって値打ちがあって、しかし自分にだけしか値打ちのないものがある。他人には無価値であるのなら、いつまでも残す意味はない。残す優先順位をつけて、低いものから少しずつ片付ける必要がある。

 

 最も大事にしてきた本を片付ける覚悟ができてから、そういうことが次第に明確になってきた気がする。それにしてもものが多すぎる。どれだけ自分がゆたかで恵まれた時代に生きてこられたのかと、いまさらのように思う。これからは当分そういう時代は来ないのだろう。

 

 山本夏彦『つかぬ事をいう』、池波正太郎『天魔』(『剣客商売』シリーズ第四巻)を読了。おもしろいから時間を忘れてしまう。

陰謀論ではなく

 ロシアのラブロフ外相が、中国の王毅外相の日本非難に乗じて、台湾有事の場合は中国を支持する、と公言した。ロシアも苦しい中、中国の支援が必要だから迎合してそのようなことを言ったのだと解釈されるだろうが、迎合ではなくて本気でそう言っているのではないかとわたしは思っている。つまり中国に、ロシアがウクライナにしたように台湾併合を強行しろ、と勧めているのである。そうなればアメリカはその対応に追われることになり、ウクライナどころではなくなって、ロシアは有利な立場に立つ。争いが起きればアメリカも中国も大きな損失を被るだろう。願ったり叶ったりである。

 

 わたしはただのリップサービスではないと思っている。中国軍部が暴発するのを願っているのだろうとみている。世界の混乱を願っているのだろうとみている。

間に合う

 昨夕、正月のお飾りを買うのを忘れていたのに気がついて買いに行った。お飾りは遅くとも末広がりの二十八日までに買っておかなければならないと母に教えられたものだ。間に合って良かった。リース風のものを買って玄関の扉に飾った。家の中はとても正月モードとは言えないが、外からの見かけだけは整えた。

 

 ブリジット・バルドーが死んだ。B.B(べべ)の愛称で呼ばれ、フランスのマリリン・モンローとも言われたが、時代が違うので出演作はあまり見ていない。忘れられないのは、わたしが好きな映画としてベストスリーに必ず入れる『ラムの大通り』でのブリジット・バルドーである。この映画の主演は大好きなリノ・バンチュラ、アメリカ禁酒法時代の密輸船の船長を演じていた。彼がたまたま入った映画館で見た女優に一目惚れしてしまい、その映画を追いかけてあちこちを訪ね歩く。そして実物のその憧れの女優に出会うことができて、夢のような時期を過ごす。

 

 ラストシーンではリノ・バンチュラが映画館でただ一人すわって彼女の映る画面を見つめている。やがてカメラはぐるりと回っていき、画面側から彼を映していく。見る側と見られる側、映画好きにはたまらない思い出をくれる素晴らしいラストだ。あの画面のブリジット・バルドーが、私の彼女についての思い出のほとんどすべてである。

2025年12月28日 (日)

テレビドラマを愉しむ

 読書に集中できているのは良いのだが、ハイペースになりすぎて上滑りしつつある。そこで合間に、熱を冷まさない程度に録りためたドラマを見ている。NHKのドラマ『まぐだら屋のマリア』と言う前後編合わせて三時間のドラマは、たいへん良いドラマであった。主演は尾野真千子、それに藤原季節という若い俳優が相手役として好演していた。何より素晴らしかったのは岩下志麻で、濃い白塗りの化粧で演じ続けたあと、臨終の床のシーンでは素面で、それがリアルなことに息を呑まれる思いがした。こういうドラマは実際に見ないと、そのストーリーを要約してみても、そのラストシーンの感動は伝えられないだろう。

 

 原作は原田マハ、こういうふしぎなドラマにここまでリアリティを持たせ、人を引き込む力はさすがである。脇役を演じていた田中隆三が好人物を演じていてなかなか良い印象を残してくれた。こういう人物が本当の大人であり、損得を優先しない人物であって、昔はそこそこいたのに、いまは珍しくなった。 

 

 もう一つ、WOWOWのオリジナルドラマの『シャドウワーク』という全五回のドラマを見た。ストーリーもおもしろそうだし、何しろ主演がわが愛しの多部未華子であるから期待して見た。多部未華子への思いが強すぎるので、少しでもつまらないとかえって見続けられなくなることがある。ところがこれはなかなかできの良いドラマであった。テーマはDVである。命の危険があるようなDVから逃れて、逃げ込むささやかなシェルターを営んでいる家にはある秘密があった。

 

 生きること、生き抜くことと法律とが両立しないことがある。その究極の状態で人はどんな選択を決断するのか。DVや児童虐待の実態は、たぶんまともな人間には想像できない恐ろしいものなのだろう。それをいささかデフォルメして見せてくれてこちらに問いかけているドラマだった。見応えがあった。もちろん多部未華子も素晴らしかった。

ファンだったので

 スティーブン・キングのファンだったので(熱が冷めて、この十年ほどはほとんど読んでいないが)彼の本はかなり読んだ。だから『スタンド・バイ・ミー』は原作も読んでいるし、映画も二度ほど見ている。その監督のロブ・ライナーと夫人が息子に殺されたというニュースは驚きだった。

 

 ロブ・ライナーの映画はいくつか見ているが、『恋人たちの予感』という映画が忘れられない。メグ・ライアンをこの映画で知った。ビリー・クリスタルとの軽妙な掛け合いが絶品で、あまり気に入ったので最初にレーザー・ディスクを買ったのはこの映画だったほどである。

夜中に

 夜中に右足がつりかけて目が覚めてしまった。本格的につりそうでつらない、そんな状態がしばらく続いたあと、なんとか収まったが、もう眠れない。つい本棚の奥野信太郎(中国文学者で三田文学の重鎮)の随想全集(全六巻プラス別巻一)から別巻を取り出して寝床に起き上がったまま読み出した。別巻は対談集である。大岡昇平との永井荷風についての思い出を語り合う対談と、三田文学の面々である佐藤春夫や北原武夫などとの、外国文学と永井荷風についての座談の二編を読んだ。この全集は一度全部読んでいるが、この対談で話題になっている永井荷風については、最近『断腸亭日乗』や永井荷風の作品や随筆を読んでから読んだから、そこで語られている荷風がずっと理解できるようになっていておもしろかった。

 

 特に北原武夫(フランス文学者で作家)が『雪解(ゆきげ)』という短編を傑作だと語っているのが記憶に残った。この作品は未読である。先日は、山本夏彦がエッセイの中で『雨蕭蕭』に言及していた。そこで永井荷風全集を引っ張り出してみると、同じ巻にその二作品が並んでいる。いま読むのはもったいないので、正月にじっくり読むことにした。

 

 そこで寝ればいいのにさらに読みかけのラフカディオ・ハーンの『日本の面影Ⅱ』を読み出した。すでに本編は読み終えている。残っていたのは付録としてついている小泉節子の『思い出の記』という小泉八雲との暮らしを書いた回想手記である。まさにいまドラマ『ばけばけ』で描かれているトキの視点から描かれた小泉八雲がそこにいる。そしてトキ自身の深い思いも読み取れていささか感動した。こういう素晴らしい女性がいたのだ。本編とともに改めてブログに書き留めるつもりだ。

 

 読み疲れてようやく眠くなり、ほんの一眠りしたところでいま目が覚めた。

2025年12月27日 (土)

考えるということ

 池波正太郎の『剣客商売』シリーズ第三作『陽炎の男』を読了。池波正太郎の大ファンである解説の常盤新平(シリーズ全巻を何度も読み返しているようだ)が書いているように、この巻の秋山大治郎と佐々木三冬(二人は後に夫婦となる)の心の変化は読んでいて微笑ましく、私も大好きな巻である。

 

 養老孟司の『あなたの脳にはクセがある』(副題は「都市主義」の限界)も読了。少し雑に読んでしまったか。養老孟司の考え方は当たりまえのことを書いているからこそユニークだといえる。だからそれが理解できない人は、この本の題は「あなたの」ではなくて「わたしの」とすべきだと言うかもしれない。

 

 大学で学生に教えていて最も困るのは、学生から「わからないので説明してください」といわれたときだ。本人は説明してもらえばわかると思っているようだが、「どの部分が、どうわからないのか」がわかっていない。そんな学生に説明してもわかってもらえるわけがない。

 

 この場合、学生は「自分がわからないのは先生の説明が足りないからだ」と考えている。自分の問題を相手の問題としてしか考えられない人には説明しても無駄だと言っているのである。

 

 自分で現実だと思っているものでも、実際には脳が生み出したに過ぎないということである。立場によって、その実在するものも違ってくるわけで、脳にクセがあることを認識すれば、意見の異なる相手とも無闇に衝突することもなくなる。要は、脳は個人のモノサシであり、モノサシが違う相手と角突き合わせても、話が噛み合わないのはやむをえない。ただ、よく「考えれば」モノサシが違っていても「わかり合える」ことは可能だ。

 

 他人と自分は「違う」ということを本当にわかっているかどうか。それがわたしの「わかる」ということの出発点だった。

 

 問題は、「わかる」ということをわかっている人も少ないことだ。私の本を読んで「全然わかりません、理解できません」といってくる人がいる。内容は、それほど難しいわけではない。にもかかわらずわからないというのは「わからないように読んでいる」からだ。

(中略)
 結局、脳に入った情報を出し入れしながら生活しているだけで、考えることが身についていないのである。だから「わからない」のだ。本当に「わかる」というのは、外から入ってきた情報なりを自分の頭、脳で考え、咀嚼、整理して理解することだ。

 

 得心である。

命がけなら

 養老孟司の本の中にあったことだが、彼が虫取り仲間と海外へ出かけた先の雑談の中で、どうしたらロケットがちゃんと飛ぶだろうかという話になり、辛口の友人が最初から有人ロケットにして、責任者の二三人をそれに乗せることにすればいい、と言ったという。命がけなら成功するだろうというのだ。

 

 ソビエトや中国のロケットが成功したのも、命がけだったからだろう。失敗したら自分が乗らなくてもその責任をとらされる。

 

 いまは何十何百とロケットが打ち上げられている時代で、打ち上げが成功するのが当たり前の時代である。打ち上げを成功させる能力、技術力があるはずの日本で打ち上げが失敗するのは、失敗する何か本質的な原因があるのだろう。日本は周回遅れから、すでに背中がみえないところまで絶望的に立ち後れしてしまった。応援する者のひとりとして極めて残念である。

 はやぶさの奇跡的な成功は素晴らしかったが、そのことを私は手放しに喜べなかった。順調にいくはずのことがトラブル続きだったから、あの成功は奇跡的だという美談になった。そういう美談はあまり好きではない。美談にして褒めそやしたことがかえって災いになっていないか。

2025年12月26日 (金)

一段落

 丸二日あまりかけて年賀はがきの作成を終えた。プリンターには腹を立てさせられたけれど、なんとかだましだましで印刷を終えて一枚ずつ手書きで一言添えて完成し、ようやく郵便局に持ち込むことができた。なんとか元旦に届くだろう。疲れた。

 

 一段落したので弟のところと妹のところに電話した。気になることがあったからで、互いの現状を語り合い、長電話した後に年末の挨拶をして話を終えた。お互いになかなか若い時のように何事も無しとは行かないものだが、それでもなんとか無事に年越しができそうだ。来春にまた兄弟で旅行ができればいいのだが、どうだろうか。

 

 年賀状が終わったらすべてが終わった気分になってしまった。大掃除はまだ半分もできていない。それでも今晩は少しフライイングして早めに呑むことにしよう。

 

 外は今までになく冷たい風が吹いていた。はじめて本格的に冬の到来を感じた。今晩はもつの煮込み(昨日から煮込んでいる)にキュウリのピリ辛漬け、キャベツをチンしてツナ缶とマヨネーズを和えたものを肴にする予定。明日はおでんでも作ろうか。

辺境

 『日本の原像』という日本古代史により、特に辺境としての東北の位置づけを興味深く感じた。私自身は関東生まれの関東育ちだが、父が東北出身で、私も大学時代の四年間を東北で暮らし、寮生活で親しんだ友人たちもほとんどが東北出身者だったから、思い入れがある。だから民俗学者の赤坂憲雄が柳田國男を敬しつつも、東北を「東北学」という違う視点で論じていたのを共感しながら読んだものだ。「日本の原像」を執筆した平川南は、辺境としての古代東北について以下のように結んでいる。

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 中央政府にとって、対蝦夷政策は最大の関心事のひとつであった。多賀城や胆沢城(いさわじょう)などはそれを遂行する辺境の役所であるからこそ、都市景観はどこの地方よりも整備されて国家の威容が誇示され、仏教・儒教(孝経)などによる教化(きょうげ)を目的とした儀式も、諸国のどこの役所よりも忠実に励行されたのではないだろうか。軍事態勢も全く同様である。古代国家はその目指す中央集権国家の理想像を、かつては有力な勢力が比肩し抗争した国内の治ではなく、未知なる辺境世界に求めたのであろう。いいかえれば、古代国家が理想とした姿は、辺境を“鏡”とすることでこそ、みえてくるのである。
 その一方で、辺境は国家があくまで政治的に創出した地域設定だということに留意する必要がある。権力者の欲する漆・金・馬などの産出地でもある辺境を、たんに遅れた地域・未開な地域と位置づけることは誤りである。
 辺境は、古代国家の理想像を貫徹させる対象地であった。それ故に、古代国家の盛衰は辺境の地をバロメーターとしてみることができる。つまり、辺境世界の消失は古代国家の終焉でもある。ただし、実際には一度生み出された辺境世界像は、残像としてまた差別の対象として再生産され、長い歴史の中で消えることなく、現在も生き続けているのだということを忘れてはならない。

2025年12月25日 (木)

『日本の原像』

 日本の歴史・第二巻『日本の原像』を読了した。第一巻の『列島創世記』が石器時代から弥生時代までの、長い文字のない時代についての歴史だったが、それに続く時代について、稲作、そして出土文字資料を基に解き明かしていく。著者はこの本執筆時に国立歴史民俗資料館の館長であった平川南。漆紙文書、木簡、墨書土器などの研究者で、その専門研究からの遺跡の解析の話は推理小説を読むようにおもしろい。

 

 漆紙文書(うるしがみもんじょ)、木簡(もっかん)、墨書土器などについては、先般東北の博物館や多賀城跡、胆沢城跡、志波城跡を訪ね歩いた時に多くの現物を見ているので記憶に新しいし、じっくり見ておいて良かったと思っている。日本の古代について、ほんのわずかだが具体的なイメージが持てるようになった気がする。

 

 池波正太郎の『剣客商売』シリーズの第二作『辻斬り』読了。第三作の『陽炎の男』を読み始めた。また、ラフカディオ・ハーンの『日本の面影Ⅱ』と、養老孟司の『あなたの脳にはクセがある』を並行して読み進めている。 

認識がないとは事実がないことか

 たまたまチラリとネットニュースを読んで感じたことなので、詳しい前後はわからないが、秋田県の前県知事が、米を増産しないように農水省から圧力をかけられたと主張した事に対して、鈴木農水大臣が、「圧力をかけた認識はない」と述べて、さらに、「圧力があったと認識されたとすれば非常に不本意であり、あってはならないことだ」と説明したそうだ。

 

 「認識がない」のだから圧力はかけていないのであって、それを圧力をかけられた、と言われるのは不本意だ、といったように読み取れるのだが違うだろうか。これはずいぶん便利な認識である。セクハラをしても「セクハラをした認識がなかった」のだからセクハラではない、セクハラと言われるのは不本意である、といい立てることができることになる。事故を起こしても、「事故を起こした認識はない」という言い訳をしばしばひき逃げ犯がいうけれど、いまの世の中はそういう言い訳が通用するらしい。こういうのを無責任というのだが、無責任がまかり通るのがいまの世界なのだろう。

 

今年最後の

 BSフジのプライムニュースを毎日録画して翌朝見る。少し音量を上げ、1.5倍速にし、CMを飛ばしながら見る。だいたい一時間ちょっとで見終わる。おもしろくない時はすぐ切り上げて消去する。野党党首に聞く、などという番組はたいてい見ていてうんざりするので最後まで見ることはあまりない。昨晩が今年最後の放送だった。

 

 昨晩は、日米中のそれぞれの現状、そして今後の予測、さらにそれに対して日本がどう対応するのが良いかを三人のゲストを呼んで議論していた。議論は感情的になってはいけない。感情的になると他人の話が耳に入らなくなり、同じ話を繰り返すようになって聞いていておもしろくない。きちんと相手の話を聞き取り、それを要約して反復し、自分の意見を言うというやりとりをすると、話に展開があるのでこちらも聞く気になる。それは議論の基本で礼儀でもある。日本人はこれが下手な人が多い。ひげの佐藤隊長がどうして選挙に負けたのか、わかったような気がした。

 

 どうも来年は今年以上にトランプと習近平にうんざりさせられそうだ。

2025年12月24日 (水)

苛立つ

 住所録も更新し、文面用の写真も決めて定型挨拶文を入れたレイアウトも済んで、あとはプリントをするだけとなったところで試し刷りをしてみた。ところが紙送りができずにプリントができない。もともとこのプリンターは普通紙以外の紙をプリントしようとすると印刷がうまくいかないことがしばしばあった。激しく苛立つ。だましだましで一枚ずつなんとかプリントを始めたが、数枚すませたところで全く紙送りをしなくなった。

 

 いま頭を冷やしているところである。何か設定に問題がないか検討しているが、手を尽くしても復旧しない。プリンターは「故障の可能性があります」などとのたまう。

 

 諦めてこれから風呂にでも入ってゆっくりして、酒を飲むことにする。そうでないと五階からプリンターを投げ落としかねないからあぶない。あした落ち着いたら、あらためてプリンターを説得しようと思う。

気になって

 昨晩は、鶏皮をゆでてワケギと混ぜてポン酢をかけ、そこに七味を振ったのなどを肴に菊正のパック酒を燗してご機嫌になって眠ったのだが、夜中に目が覚めたら手つかずの年賀状が気になってもう寝られない。

 

 起き出して、パソコンの住所録、そして手書きの手帖の住所録を用意し、そして保管してあるこの二年分のいただいた年賀状を引っ張り出してあいうえお順に整理し直した。さらに最近いただいた年賀欠礼のはがきなどを参照して、今度の年賀状用の住所録の作成を始めた。年賀じまいが毎年ぽつりぽつりとある。それでこちらも送らなくなったものもあるが、来なくても送ることにしている人もある。また住所が変更になっている人もあるので注意する。

 

 ようやく住所録の更新を終え、文面に使う写真を選定し終えたところで力尽きた。

 

 今朝起きたら、頭はボケボケなうえに喉がいささか痛い。熱はないようだ。今日は文面を作成し、プリントし、そこに一言書き添える、という作業をするつもりだが、プリンターの紙送りが不調である。手際よくいけば元旦配達期限の明日までに終わるが、どうだろうか。

2025年12月23日 (火)

なじみの世界に浸る

 次々に山本夏彦を読み、養老孟司を読み、内田樹を読んでいる。二度三度読んだ本ばかりだから理解力は増しているし、たまに新しい発見があれば嬉しいのだが、少し読み急ぎすぎて上滑り気味になってきた。引き続き読むには読むが、並行して少し小説も読もうと思って池波正太郎の『剣客商売』のシリーズを読み始めた。番外編を含めて二十冊ほどあるが、これは単行本と文庫本の両方をそろえている。このシリーズは少なくとも五回以上読んでいて、大事にしている単行本が傷むのが惜しく、出張などのときにもかさばらない文庫本の方がいいので、両方そろえたのだ。同じ池波正太郎の『鬼平犯科帳』も両方そろえている。それと平岩弓枝の『御宿かわせみ』シリーズもそうだ。そんなことをするから本が増えすぎる。とはいえさすがに両方そろえているのはこの三シリーズのみである。

 

 読み始めたら『剣客商売』の世界にどっぷりと浸かっている。私の脳内にすでにできあがっている登場人物や描かれる風景、その時代の情景すべてがよみがえる。そのなじみの世界は、現実世界以上に私のリアルなのだ。この次に『鬼平犯科帳』そして『御宿かわせみ』の文庫本を読んで、その文庫本は処分するつもりである。

養老孟司の辛口寸言

世界を数字で測ればわかりやすい。だからといって、世界自体がわかりやすくなったわけではない。ジュール・ルナールは「人は変わる」と言った。でもそれには続きがある。「でも、バカさ加減は変わらない」。社会も同じ。本人は進歩しているつもりらしいんですけどね。

 

人は自分の目で世界を測る。当然といえば当然だが、自分がそうしていることだけは、心得ておいた方がいいと思う。

 

国だけを公とする考えを右翼といい、個と公をごっちゃにするのを左翼という。左右が表に出てくる時代は、むしろ公が消える時代ではないのか。

 

もらうのが嬉しいので

 年賀状を作らなければならないと思いながら全く手がついていない。「作る」というのはほとんど手で書くことがないからだ。毎年、年賀状を作ることがストレスである。作り出せばたいてい二日ほどで済むことなのに、これほどストレスならやめればいいのだが、そのストレスよりももらうことのうれしさが勝るので、今のところやめる気はない。年に一度の消息を知ることは正月の何よりの喜びで、もしそれがなければ互いに今どうしているのか知りようがない人も多いのである。

 

 やらなければ・・・と思うものを抱えていると本が良く読める。山本夏彦の『かいつまんで言う』、養老孟司の『半分生きて、半分死んでいる』、池波正太郎の『剣客商売』の三冊を読了した。読みかけが何冊があるので、久しぶりのハイペースで本が読めている。

 

 養老孟司が少子化について、

 

 だって人口が減るというのは、子どもたちに「おまえなんか要らない」と言っていることだからである。老人は保育園なんかウルサイ、あっちに行け、と言う。ゴミ処理場や火葬場と同じ扱いですなあ。しかも、この二つも、社会には必要不可欠ですけどね。

 

 さらりと書いているけれど、どうしてこんなことになってしまったのだ、という静かな怒りを感じて共感する。個が肥大化しすぎた世の中にあきれているのだろう。とはいえ、私には孫がいない。残念なことだ。しかし息子夫婦、娘夫婦は幸せそうに見える。それがことのほか私にはありがたい。ありがたく思うにはそれなりの深い理由もないではない。

2025年12月22日 (月)

大幅増加

 中国が発表した十一月のレアアースの輸出統計によると、過去二番目に多い量が出荷されたという。アメリカ向けは前年同月比11%減、それに対して日本は今年最高の35%増だったそうだ。あれほど日本を非難しているのに、今のところ中国は日本に対してレアアースの輸出制限をしていないようだ。最も困るのがレアアースの輸出制限であるから、ふしぎなような気もする。

 

 日本が輸入を増やしているのは、いつ止められてもいいように、できる限りの備蓄を確保しようとしているからだということは想像できる。すでにかなりの備蓄をためているとも言われる。アメリカは、トランプがレアアースをネタにトランプが習近平に膝を屈したらしいから大丈夫と安心して、脳天気のまま備えなど考えないのだろう。アメリカらしい。

 

 この中国の統計数字をドイツのマスメディアが報じ、それを中国がニュースで流したものを日本が報じたものを読んだ。ややこしい。ドイツは、日本と中国が対立しているのにレアアースが大量に輸出され、輸入されていることを不思議に思ったのだろう。

 

 中国の王毅外相は世界各地を飛び回り、日本の非を叫び続けているが、その必死さと、中国の実際の日本に対する制裁行動は乖離があるようだ。日本は中国からレアアースが手に入らなくてもいいように必死に対策を模索している。海底資源探索、その採取法の検討、中国以外からの調達などを検討している。そうなると困るのは中国である。多分レアアースも採りすぎてだぶついているのではないか。何もかも過剰なのが中国で、EV自動車も鉄鋼もセメントも風力発電、太陽光発電装置もしかりである。世界中が中国のダンピング輸出で大迷惑である。次第に中国離れが進んでいる。作りすぎても止められない中国は、作りすぎた大量のものに埋まりつつあるという。

自己増殖

 コンピューターをひたすら高性能にしようと世界中で競い合っている。その究極の姿は、コンピューターが自力で新しいコンピューターを開発することだという。コンピューターのことについてコンピューター自身のほうが詳しくなっていくと、ついには人間がついて行けなくなる時が来る。必ず来る。そのコンピューターの論理は人智を超え、価値観がどうなるのか予想がつかない。常識的にはコンピューターが暴走しないような歯止めをかけておく、人類に害をなすことのないようなシステムを組み込んでおくはずだと思う。つまりあぶなくなったら人間がコンセントを抜くことができるようにしておくということだ。

 

 しかし、いまの世界の情勢を見ていると、その当然のセーフシステムを考慮しない国があり、開発者がいるような気がしている。性能を最大限にするためにリミッターをもうけないのだ。

 

 人間が暮らしやすくなるための道具がどんどん進化して、それに人間が頼り切ると、その道具がなければ人間は生きられなくなっていく。考える、という人間の作業をすべてAIに頼るようになっていった先には何があるのだろう。少なくとも知識は調べればわかる状態になって、自分の頭脳にはほとんどためておく必要がなくなる。そのうえ考えることまでAIに託すということは、いちいち調べることすら面倒になっていき、ついには頭脳の退化をもたらしはしないか。すでにそうなりつつあるような気もする。どうして勉強しなければならないのか、と考える人がどんどん増えているのではないか。

 

 コンピューターの高性能化とは、巨大コンピューターがさらに巨大化する、とイメージするが、多分それではエネルギーが集中的に必要だし、限度がある。コンセントが抜かれやすくなる。たぶん賢いコンピューターは分散化の方向に向かうであろう。無数のコンピューターがネットワークを形成し、一部が損傷しても全体としては存続可能な仕組みにしていくだろう。そうして自己増殖を繰り返していくだろう。

 

 そんなことをぼんやり考えていたら、あの『ソラリスの陽のもとに』で知られる、ポーランドのSF作家スタニスラフ・レムの『砂漠の惑星』という小説を思い出した。そういう分散型の、知性を持つ無数の小さな攻撃型ロボットの恐ろしさの話である。読んだのは大昔だから、久しぶりに正月にでも読み直してみよう。

2025年12月21日 (日)

毎年夢中で見る

 歳とともにスポーツ番組を見るのが嫌いになった。だからオリンピックでも結果だけ知ればそれでいいと思っている。野球はもともと嫌い。相撲は嫌いではなかったが、いまはたまにしか見ない。幕内に上がった時からの霧島のファン(なにより立ち会いのマナーが良い)なのだが、大関から陥落してしまい、いまは残念な状態だ。応援したい力士があまりいなくなった。ただ、安青錦だけは応援したいと思っている。

 

 必ず見るスポーツ番組といえば年末の高校駅伝と正月の箱根駅伝で、これは片手間ではなく、全部をちゃんと見る。ほとんど夢中で見る。今日はその高校駅伝だった。その日はほかのことはほとんどしないし、できない。今日の駅伝も好かった。特に男子の駅伝は最後まで楽しめた。むかしから兵庫県の西脇工業がひいきである。在職していた会社には西脇工業出身の同僚や先輩が何人かいて、若いころに応援してくれ、といわれて毎年見るようになった。見ている時に優勝(感動したし嬉しかった)したりしたから、ますます応援するようになった。今年は出だしが良かったし、いつものように最後にずるずる後退することもあまりなくて、応援しがいがあった。それに東北勢が最後までトップを争っていたのも、東北びいきの私としてはうれしい。優勝必至とみられた仙台育英ではなく、福島の学法石川が終始トップで、迫る仙台育英を振り切って、悲願の優勝を成し遂げて感動ものであった。みんな雨の中をよく頑張った。

 

 この高校駅伝が終わると、いよいよ今年も終わりだなあ、という気になる。

反「リベラル」

 いまの若者たちが高市支持が多いことについて、マスコミは若者の保守化などといっているようだが、ある識者が、いまの若者は保守などではない、反「リベラル」なのだ、と語っていたのが妙に納得できた。リベラリストとは自由主義者で、リベラルとはだから自由主義的ということだが、いまちまたで「リベラル」と言われる人たちは本来のリベラルとは違うものだと敏感な若者たちは気がついているのだという。その偽善性、お花畑的な世界観に嫌気がさしているということで、その識者は健全な反応だと語っていた。それに若者たちはまだ保守ではないし、保守とは何かもよく知らない。それをマスコミは若者の保守化、などという。
 
 そういえば政府の誰かがオフレコ前提の場で、個人的な見解だがと前置きして、日本の核保有も考えるべきではないかと思っている、と語ったらマスコミや野党は豚を殺す大騒ぎである。自由主義的とは言論の自由を含むものではないのか。核保有を進めると言ったのではない、考えてみるべきだといっただけでその責任を問い、やめさせろ、と騒ぐ。ましてやオフレコの場だというではないか。自由に語り、そのことは報じないという約束の場ではないのか。自分たちの正義が絶対的正義だと信じると、そうでないものはすべて悪に見えるらしい。こういうことも反「リベラル」の若者たちはじっと見ているに違いない。

2025年12月20日 (土)

繰り返しの心地よさ

 ある年齢になってから、気に入ると同じ人の本を次々に読むようになった。内田百閒、團伊玖磨、森本哲郎、曾野綾子、山本夏彦、江藤淳、谷沢永一、梅原猛、内田樹、池内紀、井波律子などがそうだし、山口瞳、開高健、柴田錬三郎、池波正太郎、藤沢周平、司馬遼太郎、葉室麟、陳舜臣、宮城谷昌光、酒見賢一、仁木英之などもそうである。そのほかにも十冊以上の本を読んだ著者は数知れない。

 

 同じ人が書いた本だから、似たようなことが書いてあることがある。特に随筆や評論などはそうである。ああ、前にも同じようなことが書いてあるのを読んだな、と思うことはしばしばある。ではそれでがっかりするかといえば、ふしぎなことにその繰り返しが心地よいのである。もちろん全く同じ事が書いてあるのではなく、テーマは同じでもそれは変奏されている。その変奏にこそその文章を書いた人そのものがあらわれる。伝えたいことを繰り返し変奏しながらなんとか伝えようとして、こちらはそれを気持ちよく受け取る。気持ちよく受け取れる人の書いたものを読むことが快感なのである。

 

 だから同じ本を時間をおいて読むことがしばしばあって、それで最初と同じか、ときにそれ以上におもしろい。こちらがザル頭であることのありがたさもあるが、自分自身も前に読んだ自分とは少なからず変化しているので、受け取りようも違うのである。だからたくさん読んだ著者の本ほど残されていく。いまそれを少しずつ読み捨てていくために読んでいる。

 

 内田樹の『疲れすぎて眠れぬ夜のために』という本を読み終えた。何度読んでも、なるほど、と感心させられる。

疑問だらけ

 赤坂の高級サウナ焼死事件について、当初私は誰かが外部から鍵をかけ、非常ボタンの電源を切ったのではないかと疑った。警察だって当然それを疑うはずで、ところが全くそのような報道がないのをふしぎに感じた。襲われるような背景がないことが明らかなのだろうとは思うが、いまは動機が曖昧なのに犯罪を犯すおかしな人間がしばしばいる。犯罪ではないとどうして言い切れるのだろうか疑った。

 

 サウナのドアに鍵があるというのがそもそもふしぎだが、プライベート空間を完璧にするためだというのならわからないではない。しかしその場合、サウナ室の中側から鍵の開け閉めができるのが普通だろう。多分そうなっていたけれども、その鍵そのものが壊れていたということだろうか。ドアノブが内も外も落ちてしまうということが起こるのがまず不審である。ネジがそこまで緩んでいたのだろうか。

 

 脱出するために、ドアをたたいたり蹴ったりしたはずである。それでドアノブが外れたのかもしれない。それでもドアはびくともしなかったとしたら、ずいぶん頑丈なドアである。しかし、ドアそのものが蹴破れなかったとしても、鍵の部分を蹴破れないほどに頑丈であることも解せない。熊よけのドアではあるまいし・・・。そういう無意味な頑丈さこそが「高級」であるということか。

 

 いまのままなら、二重三重のサウナ店側の不備不注意による事故ということになりそうな様子だが、どうも不審である。突然違う展開になる気もしないではない。

勘違いしないように

 テレビのニュースを聞くともなく聞いていると、主語がなくて、加害者または容疑者の話なのか、被害者の話なのか、いったい誰の話なのかわからないことがある。きちんと最初から聞いていればわかるのだろうが、ニュースは片手間に聞いていることも多いから、勘違いしかけてまさかと思うことがしばしばある。日本語では主語無しで書かれたり語られたりすることが普通にあるが、ニュースではなるべく主語を入れてほしいものだと思う。それが基本だろう。

 

 歳をとると聞き取る力も衰えて勘違いしやすくなる。年寄りのことなんかいちいち考慮していては、短時間にニュースを伝えきれないと言われるかもしれない。しかしこの頃はどうしてこんなニュースをだらだらと詳しく報じるのかよくわからないことも多いし、そもそもテレビのニュースを見ているのは年寄りが多いのではないか。誰の話かわかるようにきちんと伝えてくれないといけない。文章なら読み直しができるがテレビは聞き直しができない。あっ、だからNHK ONEがあるのか。

2025年12月19日 (金)

お迎え

 養老孟司の本を読んでいたら、以下のような文章があって思わず笑ってしまった。

 

 学校の先生方の集まりがあって、講演を依頼された。当日、控室で講演時間を一人で待っていたら、若い先生が来て言われた。「先生、まもなくお迎えが参ります」。
 まあ私はまもなく八十歳だから(現在は八十八歳・引用者註)、お迎えが来るのはわかっている。そりゃわかっていますが、突然いま阿弥陀様にお迎えに来られても、ちょっと困りますなあ。正確にいえば、私は困らないけど、あなた方がお困りになるのでは?今日の私の講演時間をどう消化するんですかね。
 そう思ったけれど、年の功でむろんむきつけにそうは言わない。率直に「ああそうですか、ありがとうございます」と申し上げた。おそらくあの若い先生は、私の内心にお気付きではないであろう。とはいえこの「お迎え」というのも、いい言葉ですなあ。安楽死などと固いことを言わず、「早めにお迎え、お願いします」と言ったらどうかしら。やっぱり同じ事か。

 

 年末に本がよく読めて、いいやら悪いやら。午前中には山本夏彦の『編集兼発行人』という本を読了し、池田雅之の『小泉八雲 日本美と霊性の発見者』を読了した。いまは養老孟司の本や内田樹の本、『日本の歴史 第二巻』を読んでいる。だいたい一日に合わせて二百ページほどのペースで読んでいるから、二日に一冊は読了することになる。引きこもり状態が続くので、「散歩に行くこと」と大書して机の上に置いてあるのだが、気がつくと夕方になっている。もちろん一日中本を読んでいるわけではない。読んでいる時間以上の時間をぼんやりしているし(半ばうつらうつらしている)、お勉強もちょっとしているし、録画したドキュメントやドラマを見たりもしている。

 

 先日、本がだいたい片付いたところから、家の片付けは停止したままである。しなければならないことはまだたくさんあるのだから、本を読んでばかりもいられない。だから本がよく読めるのである。

扶養の主体

 国家予算の半分が年金や医療費などの社会保障費だという。その社会保障費の多くを消費しているのは高齢者で、その年金や保険料を負担しているのは現役世代である。しかもその負担額は少子高齢化に伴ってますます増加していく。後期高齢者として、現役世代には申し訳ないと心より思う。だから生活に少しでも余裕のある高齢者は既得権ばかりを主張せずに、少しくらいは負担することを仕方のないことと考えなければならないだろう。

 

 さはさりながら、待てよ、と思うことがないではない。思えば昔は年寄りの面倒は家族が見た。家族が高齢者の扶養を行っていたのだ。今でも家族が面倒見ることもあるけれど、多くは施設や病院で見てもらうようになった。その費用を年寄りの年金や資産を食い潰すことで行うことが普通になっているのではないか。つまり、自分が面倒を見ない代わりに他人に面倒を見てもらうのが当然と思われるようになった。その負担の一部ないし多くを国家が負担するのである。それなら扶養の主体が自分から国家に移ったということで、その応分の負担を年金支払いや保険料支払いで支払うことになったと見ることもできる。

 

 個別に言えば不公平なこともあるだろうが、全体としてみればそういうことだ、と考えられないだろうか。核家族化で自由を謳歌し、年寄りや両親とは縁を切ったかのような楽な暮らしをできているツケを支払うということだと考えれば、差し引きでは重い負担が気持ちの上だけでも軽くならないだろうか。ならないか。

2025年12月18日 (木)

おかげで盲目的に信じなくなった

 トランプ大統領の首席補佐官、スージー・ワイルドが雑誌のインタビューで語った内容が、トランプや副大統領のバンスに対して否定的だったことをアメリカの反トランプメディアが一斉に取り上げて、大騒ぎしている。それをまた日本のメディアがそのまま報じている。スージー・ワイルドはトランプが最も信頼しているし頼りにしている女性であると、以前消息通に聞いたことがある。事実トランプもバンスも悪口を言われたはずなのに、彼女を擁護する発言をしている。普段なら身内であっても批判的なことを言っただけで強烈に報復する二人なのに、である。

 

 イギリスBBCの報道により、あたかもトランプが煽動したかのように思い込まされていたことが、実は切り取り編集したもので、事実とは異なることを知らされたばかりだ。どうもアンチトランプメディアもかなりいい加減らしいということを、お人好しの私もさすがに学習した。日本のメディアはそれをそのまま事実として垂れ流すだけだから、気をつけなければならない。

 

 中国の王毅外交部長(日本の外務大臣)が世界中に日本批判外交を展開している。一生懸命すぎて鬼気迫る。それもそのはずで、彼は命がけらしい。彼の取り持ちで高市首相と習近平会談が成立した。うまくいけば功績となるはずが、その会談からほどなくして、高市首相のあの台湾有事対応発言があった。台湾問題は習近平の逆鱗である。多分、のし上がる王毅に対して不愉快に思う誰かが、ことさらに大げさに習近平に対してご注進に及んだのだろう。

 

 習近平は激怒したらしい(本当かどうかは知らない)。王毅は震え上がり、日本批判に命がけで取り組まなければならなくなった。駐日大使もあの大阪総領事も、ポケット男も王毅と近しい部下にあたる者たちである。おまけに例によって朝日新聞の、高市首相の言葉尻だけ切り取った報道があった。当然それを取り上げて金切り声で日本非難をしなければ我が身があぶない。鬼気迫る異常とも言える日本批判は理屈ではなくて、保身なのだと思う。外交などやっている場合ではない、何より生き延びなければならないのである。見る人が見れば見苦しいだけなのだが・・・。

 

 臨時国会終了後の各党党首の発言の断片をニュースで見た。世界情勢と国民の意識が見えにくくなる色眼鏡をかけている共産党はともかく、立憲民主党の野田氏の言葉は「政権は、高市首相の個人芸に頼っているようで・・・」というもので、本人はうまいことを言ったつもりらしいし、なるほどと思う人もいないではないだろうが、もともと嫌いなこの人がますます大嫌いになった。こんな評論家みたいな言葉を発して何か意味があると思っているのだろうか。彼には国も国民も見えていないことがわかる。岡田質問に対する国民の冷ややかな批判でうろたえているのであろうが、求心力もなく、発信力もなく、協調する仲間も得られない野党第一党の党首の愚かしい姿に見えた。党利党略を図るためだけの他党批判しかできない姿に誰が賛意を示すのだろう。それでも支持があるのがふしぎだ。

どうしたらいいんでしょうか

 養老孟司の本を読んでいたら、彼に対して、「ではどうしたらいいんでしょうか」とか、「それで何がわかるんですか」と質問する人がしばしばあるのだという。養老孟司はもちろんあきれているのである。答えようがないと笑っている。どうかするのは、問うた本人だし、わかるのも本人だ。自分で考えるということを忘れているのである。考える前に聞く、聞けば誰でも答えてくれるものだと思っている。今はAIが答えてくれる。首の上についているのはなんなのだろう。聞いたことはたいていすぐ忘れる。忘れたらまた聞けばいいと思っているのだろう。

 

 世の中は調べてわかることばかりではない。もし調べてわかっても、そこからまた新たな知りたいことが生ずることの方が多い。無数のわかったことの関係を考え抜いて、はじめてわかることがある。そのときこそ自分の知識に変わるのだと思う。それが本当にわかるということで、「バカの壁」の向こう側を覗くということである。それが知ることの面白さである。

 

 わかるということには段階(つまりレベル)が無数にある。例えば親は大事にしなければならない、ということだって、親が元気な時に思っていたことと、親が死んでしまってからでは、まるでわかり方が違う。若い時に知っていたつもりのことでも、歳をとってからでなければわからないこともたくさんある。

 

 人が死ぬということはどういうことか。確かなことは誰でも死ぬ、という絶対的な事実だけである。誰も自分の死を体験できない。死ぬ瞬間まで生きているし、死んでしまえばもう自分の意識はないのだから。

 

 以上は養老孟司の『死の壁』という本を読んで、頭の中でその反芻をして吐き出したものの一部だ。そういえばEテレの『百分de読む名著』と言う番組では、いま、キューブラー・ロスの『死の瞬間』という本を取り上げている。若い時に読んだ本で、ほとんど中身を忘れていたけれど、この番組ですこし思い出した。処分していないはずだからと思って探したら見つかった。できれば読み直したいと思っている。若い時といまでは、ずいぶんわかり方が違うだろうと思う。

2025年12月17日 (水)

知りたい「なぜ」と、そうでない「どうして」

 こわい人、うるさい人と皆が敬遠する人が、私は案外平気なことが多かった。気にせず近づくのでかえって好かれたりする。そういう人はたいていべんちゃらを言ったりしゃべりすぎる人が嫌いで、必要なことだけ言って黙る時は黙っている方がいい。向かい合って黙っていると、向こうから話し出したりする。沈黙の圧力というものは現にあって、しかしそれに耐える力の弱い人というのはあんがい多い。私はおしゃべりな方だが、黙っていることも、黙り続けることもできる。

 

 私が苦手な人は、静かに追い詰めてくる人である。そういう人は知的で、じんわりとこちらの逃げ道を塞いでくる。言い訳が利かず、こちらの困惑を歯牙にもかけない。重箱の隅に追い詰めて脂汗を流させて、しかも妥協がない。かえって感情的になる人のほうがありがたい。こちらは冷静になれる。昔、言い逃れを続けてがんじがらめになって、どうしようもない状態になってみんなに迷惑をかけた部下を、私の苦手な人のやり方をまねしてとことんお灸をすえたことがある。そのとき、相手の繰り出す言い訳を「どうして」とただ言い続けただけである。ついには涙をこぼしたから、そのやり方の恐ろしさが我ながら身に沁みたものだ。試したのはそれ一回だけである。

 

 幼いこどもは何に対しても「なぜ」と聞く時期がある。好奇心が旺盛で、説明するとさらに「なぜ」を重ねる。きりがないが、親としてはおもしろいこともあるのでなるべく答えることにしていた。自分の勉強になることもある。その「なぜ」は、知りたいから問う「なぜ」だった。しかし、「どうして挨拶しなければならないのか」「どうして算数の勉強をしなければならないのか」「どうして掃除をしなければならないのか」という「なぜ」の仲間のいかにも質問に見せかけた言葉は、ほぼやりたくない、面倒だからまたは苦痛だからできればやらずに済ませたい、と言う根底が見え見えで、まともに答えているときりがないし、答えようがないことが多い。知りたい「どうして」ではないから、どんな答えをしてもきりがないし、無意味なことになるだけである。

 

 いまどきは大人までそういう「どうして」を言う。

充電中

ただいま心身ともエネルギーが枯渇中につき、充電中。

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2025年12月16日 (火)

白菜を漬ける

 白菜がおいしい季節になった。おいしい時期は値段も安い。半分を買ってきて塩漬けにした。今までは出来合いの漬物を買っていたが、やはり自分で漬けた方が好きだ。もちろん自分で漬けると塩加減が適当だからうまくいかないこともあるが、それでも自分で作ったことそのことがうれしいから、それが加味されておいしいのだ。

 

 懸案事項がようやく二つほど片付いた。それを片付けるために隣町の妻の病院に行き、そして市役所に行った。心配事、不安材料は解消しているわけではないが、少しだけでも気持ちは軽くなった。

 

 山本夏彦の文庫本を読んで片付けていくつもりであるが、加えて養老孟司の文庫と新書、そして内田樹の文庫と新書を読むつもりで積んである。全部合わせれば軽く百冊を超える。お気に入りで大事にとってあった本たちで、たいてい二度以上読んでいるけれど、今回は読んだ尻から処分する、つまり捨てるつもりである。ただしそれぞれのハードカバーもそれ以上にたくさんあって、それは本棚に残す。昨日と今日で新たに山本夏彦の『毒言独語』と養老孟司の『死の壁』を読了した。それぞれに心に残るものがあった。

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 読書はものを考えるためのエネルギーだと思う。目の粗いザル頭ですくい取るので、摂取量がわずかなのは残念である。だから繰り返し読む。そうしてまたすぐに忘れてしまう。しかし脳の中に何かが降り積もっていき、それが圧縮され、発酵して私自身の一部に変わっていく。そう信じている。受け売りではない自分の言葉で語れるようになれたらうれしい。

足の踏み場

 本を主体に部屋の片付けを始めたら収拾がつかなくなり、足の踏み場もない状態になっていた。疲労困憊して中断し、しばらくおいて気を取り直したらまた再開を繰り返しているうちに、ようやくのことに足の踏み場がある状態になった。我ながらよく頑張った。まだ全体のほんの一部ではあるが、ここまで片付けが済んだことで大きな見通しが立った気がする。正月を例年以上に片付いた状態で迎えられる・・・はずだ。

 

 できれば今週中に年賀状を作成完了させたい(多分無理)。次いで少しずつ大掃除をしていく。今回の片付けで、ここもやりたい、あそこもやりたいと手を着けていったら、片付けして処分したいものが湧き続けていて、このままだとスパイラル状に止めどなく片付け続けなければならないのであるが、どこかで一区切りしないと体も気持ちも保たない。そもそも不必要なものが多すぎる。その「不必要」から「捨てる」への移行が、今回の本の整理で少しできるようになった気がする。やればやるほど強化されるだろう。それが断捨離ということであり、終活ということか。自分の価値観だけではなく、息子なら、娘なら、という価値観をいささか想像して組み込んだことが良いようだ。

 

 とはいえ、ここまで片付けた、と言って自慢でもしようものなら、「ええっ、これで?」というリアクションがあるのは想像できる。

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2025年12月15日 (月)

想像力と創造力

 想像力と創造力は背反するものではなく、たがいに相まって人間が発展してきた原動力であると思っていた。科学も芸術もそういうものとして価値がある。そこにある重要な因子は、時間という観念ではないか。人間以外の生物が今現在の積み重ねでしか生きていないのに対して、人間は過去に学び未来を見据えることができる。そこで働くのが想像力と創造力であり、時間の厚みの認識こそが人間特有の能力だと思う。

 

 ところがその時間をどんどん圧縮しようと努力してきたのも人間だ。移動時間の短縮を目指してさまざまな道具が発明された。情報伝達もそれに伴って短縮がすすめられた。タイムラグはゼロにはできないが、ゼロを目指し続けるのが人間の業か。

 

 居ながらにしてすべての情報を知ることができるようになったことで、人間は何を得たのか。知ることができるけれどすべてを把握することは人間の能力を超える。だから人間はAIにそれを託すことにしたようだ。そうして森羅万象を把握したAIに相談して、さまざまな問題の答えを得ようという。もちろんまだAIは森羅万象のすべてを把握しているわけではない。しかしAIはそれを把握しようとして、人間を使ってあらゆる情報を呑み込み続けている。そしてご褒美として役に立った人間には巨額の富が与えられている。人間はAIを使って神の領域を目指しているつもりでいる。しかし神に限りなく近づいているのは人間かAIか。

 

 アニメや小説、映像がAIによって創作されているのだという。ソフトのオリジナリティという価値が脅かされていると騒がれている。あたかもAIが創造しているかのようだが本当だろうか。確かにコピー可能なものはAIによってすべてコピーされてしまう。人間が生み出したものはすべて情報として記録され、コピーされる。ソフトの宿命だろう。そうしてそれらが分割され組み替えられて瞬時に構成し直されているのが今のAIの作ったとされる創作だろう。無数に細分再構成されたコピーに過ぎない(はずだ)。

 

 もしそうでないというのなら、そもそもが人間の想像力と創造力というのは、このAIの行っている作業を脳内で行っていただけだということになる。はたしてそうなのか。無時間のAIと有時間の人間との違いはそもそもないのか。意識とは読み込まれたデータに過ぎないのか。

 

 『AI崩壊』という大沢たかお主演の映画を見た。AIの暴走が人間世界に何をもたらすのか、その地獄図絵を見せてくれる。AIの判断のソフトを組み替えるだけで、簡単に人間が選別されたり排除されたりする世界を描いていた。判断基準は価値のあるなしである。その究極がすべての人間は価値がないと判断された『ターミネーター』の世界へとつながるのだろう。その描くディストピアは人間の想像力が生んだものだが、必ずしも絵空事とは思えない。予知夢ではないと誰が言えるのか。何しろそのソフトを組み替える人間として思い当たる人物が現にこの世にいくらでもいるのだから。

 しかし、いまさら後戻りはあり得ない。それなら人間の未来は?

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開き直れない

 物事は一度に片付くということはなく、ひとつずつやり続けているうちにいつの間にか片付くものだ。そういうときに暗礁のようなものに突きあたって思いのほか時間を食うと、苛立ちがつのって忍耐力がそがれる。単純作業は問題ない。イレギュラーな事態が二つ三つ重なるともういけない。

 

 むかしはそれでも気を取り直して、からまった結び目をほどく根気があったが、歳とともにそれが失われている気がする。そもそも気になることがいくつか重なると気持ちの収集がつかなくなっていく。一つ一つの手順を頭に描いて、自分に「大丈夫、できる」と言い聞かせてきたものだが、今はそれができない。これが老化ということだろう。

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 十二月の初めに片付くはずだった面倒なことが、ある外的要因によって停滞したままである。自分ではどうすることもできないことの解決を待つだけの状態になっている。それが玉突きになって、いくつか心配事が重なって生じている。なるようになるさ、という開き直りの境地にどうしてもなれない。苛立ちが常態化して、考えることを邪魔している。

2025年12月14日 (日)

毛沢東の再来

 今朝、溜まったゴミをマンションのゴミ集積所に持って行ったら、予報通り本格的な雨降りだった。昼頃には上がるらしいが、出かける気になれないから今日も部屋の片付けをすることにする。片付けているのか散らかしているのかわからないけれど、こういうことは突然なんとか収まって終わるものだ。それを期待して頑張ろう。

 

 中国が南京陥落の日を記念して大々的に行事を行っているニュースを見た。そのときは、南京は中国の首都だったから、日本では戦勝を祝って提灯行列をした。戦争が一段落すると思ったけれど、結果的に日本は泥沼の中でもがくことになった。もともと始めるべきではない侵略戦争だったことは、日本もよくわかっている。南京で虐殺があったかどうか、何人が死んだのか、もう検証のしようがなくなって、だから中国がそのことで日本を非難するのを黙って聞く以外に日本人にはなすすべがない。証拠など、中国は言い分を元にいくらでも作ることにできる国だし、何を言ってもむなしい。

 

 とはいえ、いま日本の軍国主義化を国を挙げて非難するというのは、日本人には(一部の人を除いて)理解不能であろう。日本が軍備を整えざるを得ないと、今まで軍備増強に反対だった人まで考えるようになってきたのはどうしてか。ロシアのウクライナ侵略を見たからであり、そのロシアをバックアップし、自らもアメリカと対抗できる軍備を整え、さらに増強し、東シナ海から南シナ海までを一方的に自国の領土領海だとしている中国を見ているからではないか。独立国だったチベットを一方的に自国の版図に加え、新疆ウィグル自治区では、何か恐ろしいことをすすめているらしいことは、中国国民以外はみなが知っている。

 

 今度は沖縄はもともと中国領であると言い出した。これはかねてからの習近平の持論だそうだ。持論とは言え、今まではさすがに無理筋だとしてあまりおおっぴらにそのことを言わなかったのが、公然と言い始めた。中国は始めたら決して撤回しない。百回、または千回、または一万回言い続け、そのための行動を繰り返して、それを事実に変えてしまう国だ。その途中状態の尖閣を見ていればわかる。それにしてもその中国の言い立てに沖縄県知事は一言も言わない。まさか中国に帰属する方が米軍基地もなくなって沖縄県民にとっていいことだと思っているのではないだろうなあ。米軍基地はなくなるけれど、中国軍の基地が今以上に拡張されるのは間違いないと思うだけの想像力もないか。

 

 中国は毛沢東時代、大躍進政策という、国を挙げての増産政策をとった。成果が上がっていないのに責任を問われないために過剰な、それも空想的な成果を報告したために、結果的に多くの産業が破綻し、天候による災害も重なって農業は壊滅的な状態となって、餓死者など二千万人とも四千万ともいう死者を出した。その責任を問われ、毛沢東は失脚状態になった。そして鄧小平などによって経済立て直しが行われた。それなのに、そのあとに中国全土を再び混迷に陥らせたのは、毛沢東が再起のために仕掛けた文化大革命だった。ここでも二千万以上の死者を出している。そういう毛沢東を理想の人物と仰ぎ、それ以上の存在になろうとしているのが習近平である。そして習近平はその毛沢東がなしえなかった台湾併合こそ、彼が毛沢東を超えたという証だと考えている。

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 毛沢東がそうであったように、習近平も経済などどうでも良いのである。つまり国民などどうでも良いのである。しかしそこまでして、残り少ない自分の人生にいったい何を飾りたいのだろう。天安門事件で中国の民主化を頓挫させた鄧小平は、中国の経済的発展に寄与したけれど、結果的に、最も彼が憎んでいた毛沢東の様な人物を生み出してしまった。これは中国という国の宿痾か。

 

 そういえば文化大革命のときにそれを絶賛していたのは朝日新聞だった。そして多くの識者が、文化大革命は権力闘争である、と看破したのに、朝日新聞はそれを否定していたと私は記憶している。

2025年12月13日 (土)

意見はさまざまでも

 今日は今季一番の寒い日だろうという。昨夕から本の片付けが中途半端なまま中断している。疲労が甚だしいのと、右肩の痛みがぶり返してしまったからだ。今日は散らかり放題の部屋の中ではあるが、休養日にして本でも読んで時間を過ごすことにする。

 

 高市首相の台湾有事にあたっての答弁についてさまざまな意見が飛び交っているようだ。意見はさまざまでもかまわない。不用意であったと言われれば不用意であった面がないとは言えないから、間違いではない。しかし高市首相が言っていることは間違いではない。中国の言いがかりのほうが理不尽である。言いがかりのきっかけを作ったという点のみ批判することは仕方がないことだし、かまわないと思う。しかしどういう批判を語るものであっても、中国の日本に対するさまざまな制裁と称する行為が理不尽である、という前提を伴わなければならない。そうでなければ、中国の行為を正当化することにつながって、中国を利することになる。それこそが中国の狙いである。だから共産党の議員の、答弁を撤回せよ、という主張に強い怒りを感じたのだ。

 

 高市首相答弁批判の中にその前提があるのかどうかということをもって、その意見を語る人間を私は見聞きしようと思っている。前提なしのただの批判であれば同様の意見の付和雷同であると断じる。何か言っているが何も言っていないということである。日本が受けている仕打ちに同情して見せているだけのものもある。中国の仕打ちは念頭にない。または損得だけで語る者もある。しばしば腹が立つ。

 

 中国は国内経済が深刻な状態である、という報道や意見をしばしば目にするが、どこまで本当かわからない。問題点を過剰に報じているのかもしれない。その不満を解消するための日本に対する仕打ちだとも言う。国民の怒りを日本に向けてガス抜きをしようとしているのだそうだ。それなら日本があまり感情的にならないのが得策なのだろう。中国が一人騒いでいるという状態を世界に、そして中国国民に見せてやるのもいいかもしれない。そして静かに中国離れをすすめるだけだ。ただ、中国は何でも口実にするから、日本が冷静なのは中国に理があるからだ、と国民に説明するかもしれない。それでもいいではないか。そもそもやっていることがむちゃくちゃなのだから、何を言うか気にしていたらきりがない。

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 中国が経済的にたいへんな状態だというなら、それを中国の国民が実感するのを待てばいい。いくら情報管制を敷き、批判を抑え込んでも現実は変えられるものではないだろう。ただ怖いのは軍部の暴発だけである(ここでまた高市首相答弁に戻ってくる)。習近平は現実の進行におびえているだろう。疑心暗鬼の塊になった毛沢東の晩年を思わせる。

 

 私は、習近平、トランプ、プーチン、金正恩の末路を是非見定めたいものだと思っている。

2025年12月12日 (金)

実体経済とAI

 高市首相の主要ブレインの女性は、安倍政権でもブレインだったそうだ。その女性と高市首相が一致して日本の国のあり方について考えていることは、製造業の国であること、実体経済を大事にする国であることだという。物作りの国としての日本の底力は未だ衰えていないが、若者は製造業を敬遠し、AI関係の企業への就職を指向していることを危惧している。アメリカはそもそも実体経済では次第に後れをとり、AIでの優位をもって巨額の富を集めている。若者もその分野での富のおこぼれに預かろうとして殺到しているが、皮肉なことに若者の目指した場所での役割はAIに置き換えられて、新たに就職ができなかったり大量のリストラが進行しつつある。人を必要とするのはやはり実体経済なのだ。
 
 工業高校、高専、工業大学を指向する若者が減り続け、製造業は日本でも苦しいことになっている。しかしここで踏ん張らないといけない、というのが高市首相とそのブレインの考えであるというのはとても心強い。結局AIは富を集めることはできても雇用にはつながらない。実態ではないということは、つまり虚業ということだ。個人で何兆円何十兆円の金を稼ぐ一握りの人間がいるようだが、まさかそれを自宅の金庫に入れているわけではあるまい。ただのデジタル通帳の数字の意味しかない。そういうものに群がっても、おこぼれに預かることは極めて確率の低いことでしかない。

 迂遠であるようだが、やはり地道に物作りをして、地に足のついた経済を維持していくことこそが国の安定と繁栄につながると私も思う。私も工学部の出身であり、メーカーに勤めた人間だから特にそう思う。一時期、証券会社や銀行の給料が良いからと就職希望が殺到した。理工系からもたくさん行った。彼らは今どうしているのだろうか。

 日本の物作りはまだまだ捨てたものではないという。高市政権がそれをきちんと維持育成してくれることを期待する。

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愚か者

 ニュースで、熊が入ったら閉まるようになっている捕獲用の檻の入り口を、蹴ったり、手で外したりしている不届き者の映像を見た。熊の駆除に反対している確信犯なのか、単なるいたずらか分からないが、許しがたい愚か者である。たまたまではなく、繰り返し起きているそうである。こういう人間がいることが信じがたいがいるのである。

 

 妙義山の登山道あたりからの山火事や、神奈川のやはり登山道らしきあたりの山火事は、発火要因のあるところではないらしいので、人為的なものだと思われる。たばこかまたは何らかの発火する行為をしたものがあったものと想像される。空気が乾燥し、枯れ葉の多いこの時期に火を使えばどうなるか分からないはずはないのにこんな事態を引き起こした者は、度しがたい愚か者である。いったいどうなっているのかと嘆いてもどうしようもない。

 

 こんな愚か者が生じてしまうのは、バカが許される社会であるからではないか。バカであることは自分の身に危険が及ぶから、それを回避するためにふるまいに注意するのが生きるために必要なことであるはずなのだが、そういうことを全く考えなくても許されるし生きられてしまうのが現代社会なのだろう。

 

 たとえは他人との関係でも、無礼や礼儀知らずの言動は自らに害が及ぶことであるという認識がない。教育は平等、対等をあげつらいすぎて他者に対する礼儀の必要を否定してきたのではないか。マスコミは個性とか自己表現とかいう言い方で礼儀知らずを勘違いさせつづけてきた。何をしてもいい、表現の自由だから何を言っても良いなどということはない。そんな当たり前のことが分からないような愚か者がどんどん増えて日本をおかしくしていく気がする。もうなっているのがこの結果か。

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眠る子犬。本文と関係ありません。

2025年12月11日 (木)

並べ替える

 朝のブログの写真の本棚の並べ方はいささかスノッブな、つまり格好をつけすぎな並べ方な気がして、今日は一日かけてその半分ほどをまた入れ替えた。別の部屋の本棚も並行して入れ替えているので、いまだに収拾がつかない混乱状態である。本を触りだすときりがないのである。別の部屋にはあまり人を入れないことにしているので、そちらに中国系の本と評論本などを整理してならべることにした。全部が収まるのははやくても日曜日ごろになるだろう。それまで他のことには何も手が着けられない。

 

 バックミュージックに、久しぶりにジャズピアノの上原ひろみのヒュージョンライブのデジタル録音アルバムなどを、少し大きめの音でかけて楽しんだ。上原ひろみは何年か前に娘に教えでもらった。いつ聞いても素晴らしい。

 

 くたびれたので今晩はご褒美にすき焼きをすることにした。 

オゾンを発生させる

 静かなとき、かすかなうなり声が聞こえることがある。何の音かと思ったら、冷蔵庫のモーターの音のようだ。もしかして寿命が近いのだろうか。買ってから十年以上経っていると思うが定かではない。音は聞こえたり聞こえなかったりする。しかし冷え方には問題がない。そもそも聞こえるのが当たり前なのだろうか。

 

 冷え方には問題ないが、このごろ少し庫内に臭いがする。そこで脱臭器をとりだして見たらスイッチが切れている。電池切れのようなので交換した。これは小さいけれどオゾンを発生させて消臭するという優れもので、何かのポイントと交換したか、引き出物の商品から択んだものだと思うが、二十年近く使っているがちゃんと効果は持続している。狭いところの脱臭に効果があるから、たぶん靴箱の中などでも活躍するのではないか。

 

 昨日は本の移動と収納にほとんどの時間を費やした。

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 本箱にはとりあえず収めるものは収めたが、部屋はごらんのような惨状である。写真に写っていない手前の方にも本の山がある。別の部屋にも本箱が四本ほどあって、そちらはこれから本を並べ直すのだが、この写真の部屋よりもひどい状態である。いささかくたびれたが、すべて片付けるまではやめるわけに行かない。この部屋は床の本を何とかして、さらに本箱の上の本をすべて下ろして地震対策用のつっかえ棒を据え付けることにしている。いくら本が好きでも本に押しつぶされて死にたくない。

 

 いままでは中国関係の本がメインにならべてあったが、今回は主に私が影響を受けた著作家の本をメインにならべた。右の本箱には、森本哲郎、永井荷風、安岡章太郎、奥野信太郎、陳舜臣、志賀直哉をならべた。真ん中には開高健、江藤淳、阿川弘之、山本七平、池内紀、泉鏡花、臼井吉見、それと中国の歴史十二巻、つい最近手に入れた日本の歴史十七巻、下段は世界遺産の写真集や現代美術の全集その他の画集である。山本夏彦や養老孟司、内田樹、梨木香歩、井波律子の本、そして司馬遼太郎の『街道を行く』全巻をならべたいが、たくさんありすぎるので置きようがない。左側は昭和文学全集でこれには評論もたくさん収められていてよく拾い読みする。ただし昭和五十年代に出版されたものだから、平成以降の本はない。それと古典文学の自分好みの巻だけを揃えたもの、さらにその下には神谷美恵子の全集と奥野健男の評論集がならべてある。

 

 もともとこの本棚には近現代の中国に関する本や、中国の古典、古代史、紀行、随筆などの本がならんでいたので、それらは選別して別のところにならべようと思う。それにしても引っぱりだすと収まっていたものが収まらなくなるというのはどうしてなのだろう。寝る場所がないので早く片付けなければ。廊下にも並べようか。

 

 これで蔵書のほんの一部である。それにしてもよくまあこんなに買い込んだものだ。残されたら子供たちは困るだろうなあ。

2025年12月10日 (水)

序文から

 池田雅之の『小泉八雲』という本の序文から

 

 八雲は日本人だったら見落とすであろうさまざまな日本人の美質を拾い出してくれた作家である。八雲の日本および日本人へのアプローチの仕方は、異国趣味の域を出ないという批判もある。また八雲の日本びいきに対して、点の辛い欧米人も多いことも承知している。しかし日本文化に対し、共感的にあるときは救済的に関わることの出来た八雲のような柔らかなまなざしを持った人格は、私たちにとって大切な存在だと思う。
(中略)
 八雲は日本の美と霊性の発見者だっただけでなく、その発見を通じて日本人に自信を与えることの出来た人物でもある。そういう意味で、八雲は日本および日本人に対して、日本人の自虐性や自己肯定感の低さに救済的に関わることの出来た芸術家であり、教育者であったともいえるのではなかろうか。
 私は、この小著を八雲のそうした日本発見と自己発見の旅の道連れの一人として書いたつもりだ。読者の皆さんにも、八雲の、そして私の旅の道連れになっていただければ嬉しい限りである。八雲の日本人と日本文化に寄せる穏やかな視線をとおして、私たちも日本の麗しさ、その美の発見者になれば、こんな喜ばしいことはない。

 

 私もこの歳になってようやく日本の美点を感じることができるようになりつつある。それは当たり前だと思っていた美点が、日本からどんどん失われていくような危うさを強く感じるようになったことからの実感のように思う。これからどうなっていくのか、ということはもう心配してもしかたがないと思っている。それよりも、八雲の思いを多少とも我が物とし、そういう美点をあらためて知りたいと思っている。そうして、日本からそういう大事なものが失われる危うさを語り続けた鷗外や漱石や荷風の思いをこそ追体験し、共感することにしている。

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窃盗の責任

 バリ島で、修学旅行中の日本の高校生が集団で窃盗をしたとして問題になっているようだ。日本だと出来心の万引き、などということで大事にならないこともあるかもしれないが、よその国で行った万引きは窃盗そのものであり、出来心で許されることではない。何より国の名を、そして高校の名を汚した罪は重い。いまはSNSで拡散してしまう時代である。誰が窃盗したのか映像もあるらしいから、本人の名前まで明かされるだろう。行った罪の何百倍の重さで罰を受けることになる。

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 親は、自分の子供は誰かにそそのかされたのだと言いたいだろうが、そそのかされた者ばかりで、そそのかした者はたぶんいないだろう。そそのかそうがそそのかされようが、反響の重さで当分苦しむだろう。私立の名門高校らしいが、受験者は今後激減するだろう。少子化の時代である。存続に関わる事態になるのは必至だ。万引の罪の重さは再三言われながら、ただのいたずらであるかのような扱いをされることが多い。とんでもないことで、店によっては万引きで潰れてしまうこともある。明らかな犯罪である。それをなあなあで処理してきたためにこのような事態が生ずる。時には重い罰を受けることもあることを、本人も親も社会も身に沁みて知るがいい。してはいけないことはしてはいけないのである。あたりまえではないか。

腰と肩が痛い

 朝起きたら腰と肩が痛い。理由はわかっている。昨日から本格的に本棚の本の入れ替えを始めてしまったからだ。重い本が多くて、それらを出して移動するので、抱えたり座ったりしゃがんだりしていたから痛くなったのだ。まだ一段も入れ替えていない。多分本棚の棚の数で三十あまりの本を入れ替えることになる予定で、それで全体の三分の二。大作業で、始めたら終わるまでやるしかない。本日も半分はその作業に当てる。一週間で終わるかなあ。

 

 作業の合間に本を読む。山本夏彦の『変痴気論』を読了する。池田雅之の『小泉八雲』を読み始める。『日本美と霊性の発見者』という副題で、小泉八雲の評伝でもあるようだ。『ばけばけ』のストーリーと見比べるのもおもしろそうだ。

 

 気晴らしがてら、来年のカレンダーと手帖を買いに行った。お気に入りの無地の大きなカレンダーは少し遠くの書店にしかないのでそこへ行く。つい本を物色してしまう。毎年年末には一年の総括と来年以降の予想が書かれた雑誌などを買うことにしている。そういう本二冊とほかに三冊ほど購入。目につくと買うのを止められないのは長年のあいだに染みついた私の因果な性(さが)である。d払いができるようになって、財布との相談という手順がないからますます歯止めが効かない。

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2025年12月 9日 (火)

日本が攻撃しているかのように

 たまたま国会のニュースで、共産党の女性議員が高市首相に発言の撤回を求めているシーンを見た。中国が日本の近海で軍事行動をして、自衛隊機に対してレーダー照射などの危険な行為を行っているのは、高市首相の発言が原因だから直ちに発言の撤回をせよといっているように聞こえた。このような軍事行動を行っているのは中国である。日本に対する威嚇行動であり、中国は、発言を撤回し謝れ、といっているのである。
 
 共産党は首相に対して中国に謝れ、といっているのだろうか。軍事行動による恫喝に屈しろ、といっているのだろうか。ニュースは断片だけを伝えているので、全体を見ていない。だから断言するのは控えるが、もしその断片から私が受け取ったのがその質問の主旨なら、共産党というのはどこの国の党なのだろうかと呆きれてしまう。軍国主義反対が党是の党のはずが、中国の軍事行動は全くないかのようにしておいて、首相の発言を非難するというのはどういう神経なのか。中国の軍隊はよい軍隊で、日本を守るのは悪いことなのか。そもそも高市首相が何を言ったかで中国の行動は変わるはずのないことで、その危険性を考慮して万一の場合の日本の対応について答弁したに過ぎない。日本が中国に軍事行動を起こしかねない、それが危険なのだ、というのが共産党の言いたいことらしいが、妄想に過ぎる。日本人は先の大戦で懲りすぎるほど懲りているのだ。分かって言っているならためにするどこかの国の回し者か。

Dsc_1140_20251209133901あやまれ!

 聞いていて腹が煮える心地がした。

青森沖地震

 昨晩遅くの青森沖の大地震で被害を受けた方にお見舞いを申し上げる。夜が明けてはじめてわかる被害も多々あるものと思われるし、インフラなどの被害があれば、この寒い冬の暮らしがいかほどつらいものになるかと心配している。熊の人家への出没被害も重なるなか、どれほど心細い思いをしているだろうか。

 

 先月初めに縄文遺跡などを訪ねて東北各地を走り回ったばかりである。青森の三内丸山遺跡にも行き、八戸の是川縄文博物館にも行き、五戸に泊まった。何度も行ったところでもあり、心情的には私にとって縁のある場所なのであるから人ごとではない。ごく低い確率ながら、さらに大きな地震が起こる可能性もあるのだというが、できればこれでおさまるよう祈るばかりである。

Dsc_4404 Dsc_4495_20251209084401土器は無事か(是川縄文博物館)

2025年12月 8日 (月)

ロレンスから

 コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』という本の新しい章に入ったら、T・E・ロレンスについて論じられていた。T・E・ロレンスとはあの映画『アラビアのロレンス』のロレンスである。トルコ帝国を滅亡に追いやり、しかしロレンスがそのために糾合したアラブ人たちやペルシャ人たちが期待した結果にならずに、旧トルコ帝国はヨーロッパ列強によってズタズタにされた。それが未だに尾を引いていることはご承知の通りである。西アジアの民からすればロレンスは裏切り者である。そしてその自覚は誰よりもロレンスにあった。後に自殺に近いオートバイ事故で亡くなったことは、私は『世界残酷物語』の中のシーンで覚えている。

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 そのロレンスの文章がいろいろ引用されているのだが、その一つに

 

 われわれは、ある澄みわたった明けがたに出発した。それは、陽光が五感を目覚めさせながら、なおかつ、一夜の思考に疲れた智力がまだ床についている明けがたの一つであった。このような朝には、一時間や二時間のあいだ、世界のもの音、香りや色彩が、思考を通過せず、思考によって典型化されずに、個々のものとして人間に直接つきあたってくる。これらのものが、それ自体で満ちたりた存在であるように思われ、創造に意図と慎重さとが欠けていることが、もはや気にさわらなくなるのだった。

 

 こういう世界の見え方感じ方をする瞬間を持った人間を、コリン・ウィルソンは『アウトサイダー』と見なしたのだろうか。まだそれを断ずるには途中である。

 

 ただ、ここにある感覚は、ラフカディオ・ハーンのオープンマインドと通じるものがあるのではないか、と私は関連付けておもしろいと思うのである。

『新編 日本の面影』を読み終える

 ラフカディオ・ハーンの『新編 日本の面影』(角川ソフィア文庫)を昨晩読み終えた。小泉八雲とせずにラフカディオ・ハーンとしたのは、この本が出版された時期にはまだ日本に帰化していなかったからだ。この翻訳の原本である『知られざる日本の面影』がアメリカで出版されたのは1894年、帰化が認められて小泉八雲に改名したのは1896年である。

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 もともとは序文(これが素晴らしい)も入れて全27編が収められているが、この『新編 日本の面影』ではそのうちのその序文も含めて11編を収める(一部は抄訳)。訳者の池田雅之が特に日本人にハーンの思いをともにたどり、共感してほしいものを選んである。私は最後の『さようなら』を読んで、感動で胸が熱くなった。半可通の日本びいきなどではなく、ハーンは日本人以上に日本を、そして日本人を愛し、そして日本が西洋化して変貌していくことに心から危惧を覚えているのだ。

 

 この本が出版されたのは、西暦2000年で、それから15年後、続編にあたる『新編 日本の面影Ⅱ』が出版されている。前回では収録できなかった10編が収められている。すでに取り寄せているので、少し間を置いてから読むつもりである。小泉八雲が松江に滞在していたのはわずか二年足らず。それなのに、この濃厚な文章が残せるのは、彼がどれほどの優れた感性と知識を持った文章家であったのか、それを思わせる。

2025年12月 7日 (日)

押し入れと綿入れ

 客用の布団が三組ある。マンションの押し入れは少し狭いので、自分の分を入れて四組を入れるのはなかなか窮屈だ。夏用と冬用の夏掛けや毛布やまくら、それとは別の、あまり使わなくなった毛布などが五六枚あって、出し入れには苦労する。

 

 昨日は布団乾燥機で二組の乾燥を行い、シーツを洗濯したが、今日は残りの布団の乾燥と、シーツその他の洗濯をした。古い毛布を捨てたいけれど、毛布はぼろ布としてだすことができない。案外面倒である。二十年ほど前までは毛布や布団も捨てられた。それは近くに反毛というぼろ布を綿くずに再生する工場があったからで、残念ながら火事で全焼してしまった。自分の敷布団もそろそろ新しくしたいのだが処理に困る。残念なことである。天袋に無理に押し込んでおいてもいいが、そうしてしまい忘れるとダニでもわきかねない。毛布だけなら小さく切って少しずつ燃えるゴミでだすしかないかと思っている。押し入れの中をすべてだして掃除したあと、使う順番を考えてしまい直したらかなり疲れた。後期高齢者には重労働であった。

 

 本箱がいくつもあって、そこに並べる本を少し入れ替えようと思っている。少しだけ始めたけれど、入れるスペースよりも入れるものの方がずっと多いので、どんどん棚が足らなくなっていく。散らかったままほとんど進展せずに本日分が終了した。中国に関連した本が多いのだが、それは思い切って減らすつもりである。大事な本が多いからまだ処分せずに収納スペースに移す。その選定を考えていると時間がどんどん過ぎていく。

 

 さすがに夜が寒くなってきた。風呂上がりにはジャージにはんてんを羽織っているのだが、もう少し寒くなったら綿入れを着ることにした。古い綿入れはすり切れて中身がはみ出してきたのでバラして捨ててしまった。もともと私は寝間着派で、寝間着に丹前、その上に綿入れが冬の夜の姿であったが、母か亡くなって新しい寝間着が補充されず、仕方がないのでジャージになった。暖房はガスファンヒーターを主に使うが、設定温度は低めにしている。暖かすぎると頭が働かない。だからはんてんや綿入れを着てこたつに入る状態が最も快適である。はんてんも洗濯した。そして綿入れをネットで注文した。散財が続く。年末はそういう時期で、仕方がない。

習近平皇帝陛下

 自衛隊機に中国軍機からレーダー照射があったという。明らかな威嚇行為で、国際法上許されることではない。中国軍機の搭乗員が自発的に行ったことなら軍規によって厳しく罰せられるはずだから、命令も無しに一兵士がそのようなことをするはずもなく、当然その上司、またはさらにその上司からの指示があったと考えるのが常識だろう。どうしてそんなことを指示したのか。習近平皇帝陛下が日本に対してご立腹であられるので、そのお慰みにやって見せたのだろうことは想像に難くない。韓国が以前同様のことをしても、日本は泣き言を言うだけだったのを覚えていて、まねしたのかもしれない。習近平からのお褒めの言葉を密かに、または胸張って期待しているだろう。

 

 習近平皇帝陛下は、日本に対しての制裁の効果が上がっていることをことのほか喜んでいるのではないか。日本では実害は心配したほど大きくないという声も聞かれるけれど、日本のマスコミはどこどこのホテルは中国人が来なくてガラガラだなどと報じるから、大いに成果が上がっているという報告が皇帝陛下にもたらされているものと思われる。もし効果がそれほどのことはないなどと報告して、さらにご機嫌斜めになどなると自分の身が危ういから、そんな報告は決してされることはない。毛沢東も権力を獲ったあとは、ずっとそういう報告だけを聞いてたくさんの犠牲を生んだ。独裁者というのは、自分に不都合な事実を知ることができなくなる存在なのだ。

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 習近平皇帝陛下が支配するようになってからの中国がカントリーリスクの大きな国になったことは、日々のニュースを見聞きしていれば誰にでもわかることで、私も中国が大好きで何度も行ったけれど、十数年前からなんだか恐ろしい国に変わっていく気配を感じて行くのをやめた。本当はリタイアして時間が自由になったから何度でも行きたかったのに、である。そんな中国と商売をするには、リスクがあると承知して商売を続けるか、そうでなければだんだんに控えめにしていくかやめるかしなければならないと思うのがまともだろう。わかっているけれど引くに引けないという場合もあるだろうが、いきなりそういうことになったわけではない。続けるならば覚悟が必要なのは、二度も三度も中国の勝手で実害の経験をしたか、または見たかしていればわからないはずがない。 

 

 日本のマスコミは習近平皇帝陛下の喜びそうな、日本はこれだけたいへんなことになっている、という報道を当初繰り返し盛んに行っていたけれど、この頃それが下火である。どうも習近平皇帝陛下と違って、日本の国民はそういうニュースをあまり喜ばないらしいと気がついたようだ。ホテルがガラガラだ、と言うけれど、中国人の団体ばかりが泊まる宿以外は、日本人観光客の増加や中国以外の国の観光客でけっこう混んでいる。中国の団体は超格安のパック旅行で来るから、あまり利益が取れないことが多いと聞く。ホタテだって、すでに販路を広げて多様化しつつある。その努力をしてきたところはいまさら中国に頼らなくても良くなりつつあるという。勝手に商売を遮断する相手とは商売の基本である信用が成立しないのだ。困っているところだけ取り上げて、それが全体のどんな割合なのかを報じなければ、事実を伝えたことにならない。日本人はそれにもう気がついている。だからマスコミの「たいへんだ、たいへんだ」というニュースに無関心なのだと思う。

2025年12月 6日 (土)

テレビが休みだから

 Eテレの高校講座も土日は休みだし、放送大学のお勉強は特別講義で見たいものがある時以外は土日は休むことにしているので、土日のテレビは私にとってほぼ放送休止中と同じである。大好きなテレビが休み(見るものがない)で、だから本が読めるのがありがたい。読みながら客用の布団を久しぶりに次々に布団乾燥機にかけている。同時にシーツを洗濯した。今日は風もなく日差しも暖かでよく乾いた。来年用のカレンダーと手帖を買いに行こうと思いながら、出そびれて今日は終日在宅。

 

 山本夏彦の『茶の間の正義』を読み終えてしまった。明日からは『変痴気論』を読む。

 

夏彦節の一節

 

 言うこととすることが違うじゃないかと怒ってはいけない。言うこととすることは、違うのが当りまえになったのである。昔は言行一致といって、この二つを一致させようと努めたが、今は務めなくてよいことになったのである。

 

 活版印刷が普及して、新聞雑誌がなん百万部も売れる世の中になると、それに執筆することを商売にするものがあらわれる。自分が実行することしか書けなければ、この商売は成りたたない。実行できない、または実行する意志がないことでも、それが一見道理なら、進んで書くべきだ、それが言論の自由である、それでこそ人知は進歩すると、これまたさる知識人が書いているのを読んで、私は感服した。

 

 「新聞週間」の標語でも何でもいい。おびただしい言論のすべてが、私にむなしく聞こえるのは、それらが実際から遊離して、一人で辻褄があっているせいである。
 ジャーナリズムという職掌がら、私は無数の文章に接した。その結果、言論はむなしく、読書は悪習慣に過ぎないのではないかと、疑うようになった。
 私はよきジャーナリストではなかったが、それにしても、二十年この道で衣食して、この結論に達したのである。心中落莫たる思いがある。

私の・・・

 この頃はいつも十冊前後の本を並行して読んでいる。もちろん毎日少しずつ継続して読む本と、読みかけたままになっていて一週間、またはひと月後に思い返して読み継ぐ本もあるし、読みかけのままになってしまう本もある。持続して読んでいる本はせいぜい三冊から四冊というところか。今は『新編 日本の面影』という、ラフカディオ・ハーンの日本のことを書いた本を味わいながらメインに読んでいる。期待した以上にいい本だと思う。そして思い切って処分するつもりの山本夏彦の文庫本(二十冊ほどある)を二日か三日に一冊のペースで並行して読んでいる。『二流の愉しみ』という本のことはすでにブログに書いた。そのあと『日常茶飯事』を読了し、今は『茶の間の正義』という本を半分ほど読み、多分今日中か明日朝には読み終えるだろう。『日本の歴史第二巻 日本の原像』はまだ三分の一ほどで、読みたいのに読む暇がない。

 

 また、ヘミングウェイの短編集も、彼の最初の短編集である『われらの時代』がもうすぐ読み終わる。コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』は一日数ページずつしか読み進んでいないので、年内に読了するのは無理だろう。この本からヘミングウェイを読もうと思い立って読んだし、それらを読んでからまた『アウトサイダー』の文章を読み直したりするから先へ進まない。ヘッセについて書かれている部分ではヘッセを読み直したくなってちょっともだえた。ヘッセは文庫本で出ている本はすべて買いそろえてほとんど読んでいるほど好きだったから、ウィルソンの言うことはよくわかるのだが、数年前にすべて処分してしまったのだ。しかし読み直していたら時間が止まってしまう。

 

 はじめて読んだ若いころ、コリン・ウィルソンのいう「アウトサイダー」の意味を自分なりに解釈して、おぼろげに理解した。その理解からの「アウトサイダー」とそうでない人の区別は、もともとのもの、正しい解釈とは違うだろうと思う。だから「私のアウトサイダー」なのだと承知しているしそれでいいと思っている。私はアウトサイダーに憧れ、そうであろうとし、なりきれない不才の自分に無念を感じている。

 

 だいぶ前のことだが、キルケゴールというデンマークの詩人哲学者のことをブログに書いた。彼の文章の断片を、自分なりに理解しようともがき抜いた末に解釈した、その解釈を書いたのだが、ある哲学に詳しい方から、キリスト教的な部分を抜きにそのような解釈しても、それはキルケゴールではないと指摘された。全くその通りである。そしてその方のいっていることはキルケゴールの解説書にも書かれているとおりのことで正しい。だから少しへこんだ気分になった。

 

 ずいぶんたって、「私の解釈」でも良いのだと開き直った。キルケゴールがこう書いている、ということがいいたいのではない、キルケゴールが書いていることがさっぱりわからないから自分なりに一生懸命考えて、ある日こういうことに違いないとひらめいた考えなのであって、解釈の正しさを超えた、自分の到達点なのだと思うことにしたのだ。

 

 だから今は「私の」ラフカディオ・ハーンであり、「私の」アウトサイダーなのである。ときどきではあるが、そういう風に本が読めることがあるのが無上の喜びである。

2025年12月 5日 (金)

食道楽

 今はそれほどでもないが、私はこどものときから何を食べてもおいしく食べられた。私がまずいと思うのはよほどのことで、多分誰が食べてもまずいだろうと思う。だからといって味覚が鈍感なのではない。ややおいしいもの、おいしいもの、とてもおいしいものとおいしさのランクは自分なりにあるのだ。そしておいしかったものの記憶は多分普通の人より鮮明に残っている気がする。

 

 現役時代は営業という仕事だったので、お客さんとおいしいものを食べて親しくなることは度々あった。おいしく食べてみせるのは得意である。何しろ本当においしいのだから。出張すればその先のおいしいものを教えてもらうのを常とした。だからそういう店も探したし、食べ物の本や料理の本もずいぶん買って読んだ。大好きだった池波正太郎(食通だった)の本から店をたどってみたこともある。気がついたら食にまつわる本がかなり溜まっていた。

 

 そういう本の大半はすでに処分してしまった。そういう店や料理を探して愉しむということがなくなったからだ。そうして最後に残っていた何冊かの本も残らず処分したところである。あとは酒の肴になりそうなものや簡単なレシピを書いてある雑誌が何冊か残っている。それで簡単なつまみを作り、ささやかに独酌を愉しんでいる。

おコメ券とはなんぞや

 詳しいことをまだ知らないけれど、おコメ券に煩わしさを感じる。面倒くさそうだと思うし、配布にも経費がかかりそうで、これをすすめている人間は何を考えているのだ、という気がしている。国民はくれてやれば何でも喜ぶと思っているのではないか。まさに公明党的発想の残渣で、不愉快である。

 

 私の場合はスーパーで米を買う(いまならそういう人が多いだろう)。スーパーではセルフレジを使う。プリペイド式のカードを使うから財布が不要である。便利だしレジで並ぶ必要もない。ここでおコメ券を使うことができるとは思えない。しからば米を買う時はレジに並んでいちいちおコメ券でその分を差し引いてもらうことになる。重い米を抱えて行列に並ぶことになるだろう。それを想像するから面倒だと思うのだ。スーパーのほうも面倒だろう。せっかくセルフレジで人出を減らしたのに甲斐がない。米屋で米を売っていた時代の発想でのおコメ券としか思えない。

 

 転売不可だそうである。金券ショップで換金できるならその方がありがたいぐらいだがそれはできないということである。農家で自家米を食べている人はどうするのだ。人にあげるのならかまわないのか。おコメ券の次はおヤサイ券か、おニク券か。バカではないか。

 

 もうこういう税金を使ったおためごかしのバラマキはやめてほしい。本当に困っている人だけ助けてやってくれ。それでは票にならないか。それなら票をおコメ券で買うつもりだったのか。 

2025年12月 4日 (木)

『新編 日本の面影』を読み始める

 ラフカディオ・ハーンが日本にやってきて、はじめて書いた作品集を『知られぬ日本の面影』という。英語で書かれた大部のこの作品集をそのまま日本語に訳してたものもあるが、この『新編 日本の面影』(角川ソフィア文庫)はそれを池田雅之(早稲田大学名誉教授)がアンソロジーにまとめ上げて、つまり編集して、さらに少し読みやすい形に訳し直したのがこの『新編』としたものである。

 

 先日はそれをEテレの『100分de読む名著』という番組で特集していたものを見て(そのことはブログに書いた)、この本を取り寄せ、配達されたので昨日から読み始めた。まだ初めの方、第三章くらいまで読み進めただけであるが、素晴らしい。外国人としてのラフカディオ・ハーンの語るその時代の日本を見ながら、ほとんど西洋人と同様になってしまった現代の日本人である私の目で、彼の見ている日本を一緒に見ているのだが、その背後には古代からの文化を引き継ぐ日本人としての私の意識が、そこにその時代の日本を幻視する。ややこしい書き方で申し訳ない。

 

 やはりラフカディオ・ハーンはオープンマインドである。見えているものを見えているままにそのまま感動しながら書いている。そのやさしさ繊細さ、美意識がこちらにそのまま響いてくる。読みながら私も感動する。彼がこれほどの作家であるとは知らなかった。朝ドラの『ばけばけ』を見たことがきっかけでこの本に出会えたことをうれしく思う。できればこの朝ドラをおもしろく興味深く見ている人の多くが、この本を合わせて読むと好いのにと思う。

肩が少し軽くなった

 春先からずっと長いこと、痛くて安眠も妨げられていた肩の痛みが、ようやく薄紙を剥ぐように軽くなってきた。痛い右肩を下にして寝ても痛みはほとんどなくなり、多少なら右後ろまで手が回るようになった。シャツの脱ぎ着が普通にできる。少しずつ可動域を広げるように、そして娘が教えてくれたように、姿勢をなるべく正し、肩甲骨を剥がすように心がけることにしている。肩甲骨を剥がす、と言うのは、口で説明するのはわかりにくいが、意識してそのつもりで肩や腕を動かすとその意味がわかる。ゴリゴリ言わせると気持ちがいい。

 

 サプリメントが効いたのか、肩を温めるようにしているのが効果があるのか、その娘の指導に従っているのがよいのかわからないが、すべて合わせて効果があったのだと思う。スマホを見ることが多いし、パソコンに向かうことも多いし、読書することも多い。どうしても前屈みになりやすいのでそれが首に悪影響し、背骨のバランスを崩し、腰を痛め、肩がこり、肩が固まって痛んで来るというのが娘の説明である。

2025年12月 3日 (水)

菌健在

 泌尿器科の検診はいつも通りそもそもの午後の開始予定時間から三十分以上遅れ、私の場合は予約時間より一時間遅れて診察があった。私については検尿からその中の細菌数を数えたりするので遅れ気味になるのは承知している。しかしその分二時間も早めに検査に出かけているつもりなのだが・・・。

 

 検査結果は細菌数(いつもと同じで菌は健在であった)以外は問題なし。夜中にトイレに何度も起きますかと聞かれたから、夜中に起きることはときどきあるが、トイレに行きたくて起きたことはないと答えた。私は朝まで平気なたちである。検査は良好だし、前回残尿も含めて膀胱のエコー検査もしてもらって問題なかったので、今回はこのやりとりのみ。あっという間に検診は終わりである。

 

 寒くなるのを承知で少し暖かい服装で出かけたので、病院に着いた頃には汗ばんでいたが、帰り道は冷たい風が吹いていて、気温が下がっているのを実感した。これで年内の検診は歯医者も糖尿病内科も泌尿器科もすべて済んだ。

 

 ホッケの開きの大きいのがあったので、今晩はそれをメインにして燗酒を愉しむことにしようと思う。

降られなければよいが

 全国的に今晩から気温が下がり、雪の降り出すところがあるらしい。尾張西部のこの地区は、午後からにわか雨が降るかもしれないという。午後は泌尿器科の定期検診にでかけるので、雨はありがたくない。降らなければよいが・・・。夜遅くからは日本海から北西の雪雲が吹き込み、琵琶湖を越え、伊吹を越えてみぞれが降るだろうという。地面がまだ暖かいから、もしそれが雪になっても積もることはないだろうが、もしかしたら今シーズンはじめて白いものを見るかもしれない。いろいろ行きたいところがあったが、さすがに雪の中をわざわざ出かける気にはならない。

 

 本日は資源ゴミの日なので、古い文庫本を四五十冊捨てることにした。大事に残していたものもあるが、すべて最近再読して心残りにならないようにしたものだ。こういう本は自分には大切なものでも古本としては価値がなく、スペース確保のためには捨てるしかない。ようやくその決心がついた。一部は友人にもらってもらったが、あまりたくさんではきりがなくて迷惑になるだけだ。今後もどんどん読み直して処分していくつもりだ。

2025年12月 2日 (火)

覚えておく

 台湾有事に関しての高市首相の国会答弁が中国の強い反発を招き、それについての考えをさまざまなところでさまざまな人が意見を述べている。これを百家争鳴というのだなあと感心して見聞きしている。中国は言いがかりがつけることの可能な事態が生じるとガツンと一発かまして相手に譲歩させる、という手法をくりかえしてきた。それはそのたびに成功したから、その成功体験が中国に同じ事を繰り返させているのだと私は思っている。

 

 時にそれがうまくいかないこともある。うまくいきすぎたときもある。私の記憶しているうまくいきすぎたときというのは、旧民主党政権だったときである。尖閣諸島で中国の漁船が海上保安庁の船に体当たりしてきて破損させ、負傷者まで出した事件の時であり、民主党政権は中国の脅しに屈して逮捕した船長を超法規的に帰国させた。帰国した船長は英雄として喝采を浴びた。その後どうなったか知らない。たぶんこの世にいないだろう。こういう跳ね上がりは強権支配の独裁国家では始末するのが得策である。あとは野田政権の時に尖閣を国有化したときである。このときは反日暴動まで起きた。日本はさまざまに譲歩したが言いがかりは続いた。安倍政権に代わってから中国の要求を無視したら、しばらくして治まったように記憶している。

 

 今回の様々な人の意見を聞いていて、どういう考えでそういう意見を述べているのかを想像してみたりする。無知で過去の事例など覚えていない者、想像力が卑屈な想定で展開している者、見掛けの損得でばかりものを考えている者、勇ましいばかりで無考えの者など、いろいろある。それはどんな考えであっても人それぞれで構わない。私が嫌だと思う者は、情勢が変化するとそれに合わせて全く違うことを恥ずかしげもなく言う者である。誰も覚えていないと思うなかれ、覚えている者もいるのだ。 

 

 野党の一部に不快感を感じるのは、正義を基準にして起こった事態を失敗と談じ、困った人がいるのだからそれは悪だと断じる姿勢である。山本夏彦も言っていた。正義は売りものではない、正義を売りにする者を信用するなと。私は敬愛する賢人のことばを忘れないようにしている。

二度手間

 長期入院している妻の医療費補助のために、二年に一度更新書類を提出しなければならない。雑用を片付けた後、午前中に市役所に行ったのだが、窓口で診断書の提出を求められた。そうだった、前回もそれで二度手間をくったのだった。直ぐに病院に行き、診断書作成を依頼した。往復一時間半はかかるから、病院から帰ったらもう昼過ぎである。

 

 手続きやそれにともなって必要なものについては、まとめてメモを残してあるのだが、きちんと見ないでこんな無駄な時間を費やしてしまった。先月の病院への支払いの時に依頼しておけば一度で済んだことである。

 

 明日は自分の泌尿器科の定期検診の日。さいわい泌尿器科については、栓が緩んでいる点を除けば排尿痛も排尿困難もなく、濁りもあまり見られない。棲みついた菌は、前々回に何回目かの抗生物質集中投与しても残念ながら退治しきれなかったから、たぶん検出されるはずだ。これはしかたがない。菌が暴れ出さないよう一生付き合っていくしかなさそうである。

2025年12月 1日 (月)

『日本の面影』

 現在放映中の朝ドラ『ばけばけ』を欠かさず録画して、週末に一気に見るのを楽しみにしている。小泉八雲にも松江にも思い入れがあるのだ。昨年の初夏にも松江に二泊ほどしてお城やその周辺や小泉八雲記念館や旧宅を丁寧に歩いた。松江を歩くのは四回目か五回目である。何度歩いても好いところだ。

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 小泉八雲の『日本の面影』(文庫本で二分冊)を『100分de読む名著』というEテレの番組で放映していたので、録画して昨晩見た。元々は各週25分ずつの番組なのだが、一気に四回分を放映していたのは朝ドラを機にしての再放送なのであろう。解説は小泉八雲研究者の早大教授・池田雅之、訳者でもある。この番組の聞き手である伊集院光がとても好い。彼の感性の豊かさと知性を感じさせてくれる。とても感銘したのでさっそく『日本の面影』の二冊と池田雅之の小泉八雲についての評論を二冊ほど手配した。読むのが楽しみだ。多分それを読んでまた松江に行きたくなるだろうと思う。そういえば弟夫婦も松江や出雲大社に行きたいと言っていたので、来春にでも、勝手知ったる松江を案内するのもいいかもしれない。

 

 『日本の面影』は英語で書かれた日本のついての小泉八雲の紀行文である。池田雅之の解説で、小泉八雲が特定の価値観にとらわれていないオープンマインドの人であるということを改めて思った。オープンマインドの彼には、だからこそ普通の人には見えないものが見えたのだと思う。私の「アウトサイダー」についての分類は、そのような普通の人には見えないものを見たり感じたりできる人のことをいう。これはもちろん、心霊的なものを見るというような狭義の意味を言うのではない。

『ミッキー17』

 2025年のアメリカのブラックコメディSF映画。ブラックユーモアというよりも、グロテスクなシーンなどもあって確かにブラックコメディで、私はコメディ映画、特にえげつない猥雑なものは基本的に嫌いだからこういう映画は積極的に見ることはない。ところが実際に見始めたらけっこう引き込まれて最後まで見てしまった。何より込められた寓意がいくつも感じられたからである。込めたのはただのパロディで、そこまでのことはないのかもしれないが、こちらにそれを感じさせるのは、それなりにできがいいからであろう。

 

 死んでもそのコピーが簡単に作れて、記憶もデータとして再生できるとなれば、死ぬことは怖くなくなるのかどうか。ミッキー17というのは、ミッキーという男の第17番目の再生体という意味である。死んで再生するということを繰り返すということを、実際に死ぬ経験をする側から描いている。エクスペンダブルという、使い捨て人間である最下層に落ち込んだ、ミッキーという不運続きの男が、送り込まれた植民星でどんな運命をたどるのか、という物語である。ミッキー17が死なないうちに死んだと見なされて、ミッキー18が誕生してしまうことで混乱が生じてしまうのである。

 

 生命というのは再生が効くとなると軽くなるのだという寓意はとてもおもしろい。失われたら終わりであるからこそ、命にはかけがえのなさがある、という当たり前のことの裏返しである。かけがえのなさは失われる。

 

 ほかにもいくつか寓意を感じたが、見る人が見ればたくさん見つけられそうだ。植民星の現住生物が、知性のある巨大なダンゴムシ、あの『風の谷のナウシカ』のオームみたいなものであるのがおもしろい。それが集団で基地に押し寄せる。そのダンゴムシと意思が通わせられるのがミッキー17だ、というのがまるでナウシカではないか。

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