知りたい「なぜ」と、そうでない「どうして」
こわい人、うるさい人と皆が敬遠する人が、私は案外平気なことが多かった。気にせず近づくのでかえって好かれたりする。そういう人はたいていべんちゃらを言ったりしゃべりすぎる人が嫌いで、必要なことだけ言って黙る時は黙っている方がいい。向かい合って黙っていると、向こうから話し出したりする。沈黙の圧力というものは現にあって、しかしそれに耐える力の弱い人というのはあんがい多い。私はおしゃべりな方だが、黙っていることも、黙り続けることもできる。
私が苦手な人は、静かに追い詰めてくる人である。そういう人は知的で、じんわりとこちらの逃げ道を塞いでくる。言い訳が利かず、こちらの困惑を歯牙にもかけない。重箱の隅に追い詰めて脂汗を流させて、しかも妥協がない。かえって感情的になる人のほうがありがたい。こちらは冷静になれる。昔、言い逃れを続けてがんじがらめになって、どうしようもない状態になってみんなに迷惑をかけた部下を、私の苦手な人のやり方をまねしてとことんお灸をすえたことがある。そのとき、相手の繰り出す言い訳を「どうして」とただ言い続けただけである。ついには涙をこぼしたから、そのやり方の恐ろしさが我ながら身に沁みたものだ。試したのはそれ一回だけである。
幼いこどもは何に対しても「なぜ」と聞く時期がある。好奇心が旺盛で、説明するとさらに「なぜ」を重ねる。きりがないが、親としてはおもしろいこともあるのでなるべく答えることにしていた。自分の勉強になることもある。その「なぜ」は、知りたいから問う「なぜ」だった。しかし、「どうして挨拶しなければならないのか」「どうして算数の勉強をしなければならないのか」「どうして掃除をしなければならないのか」という「なぜ」の仲間のいかにも質問に見せかけた言葉は、ほぼやりたくない、面倒だからまたは苦痛だからできればやらずに済ませたい、と言う根底が見え見えで、まともに答えているときりがないし、答えようがないことが多い。知りたい「どうして」ではないから、どんな答えをしてもきりがないし、無意味なことになるだけである。
いまどきは大人までそういう「どうして」を言う。
« 充電中 | トップページ | どうしたらいいんでしょうか »


コメント