どうしたらいいんでしょうか
養老孟司の本を読んでいたら、彼に対して、「ではどうしたらいいんでしょうか」とか、「それで何がわかるんですか」と質問する人がしばしばあるのだという。養老孟司はもちろんあきれているのである。答えようがないと笑っている。どうかするのは、問うた本人だし、わかるのも本人だ。自分で考えるということを忘れているのである。考える前に聞く、聞けば誰でも答えてくれるものだと思っている。今はAIが答えてくれる。首の上についているのはなんなのだろう。聞いたことはたいていすぐ忘れる。忘れたらまた聞けばいいと思っているのだろう。
世の中は調べてわかることばかりではない。もし調べてわかっても、そこからまた新たな知りたいことが生ずることの方が多い。無数のわかったことの関係を考え抜いて、はじめてわかることがある。そのときこそ自分の知識に変わるのだと思う。それが本当にわかるということで、「バカの壁」の向こう側を覗くということである。それが知ることの面白さである。
わかるということには段階(つまりレベル)が無数にある。例えば親は大事にしなければならない、ということだって、親が元気な時に思っていたことと、親が死んでしまってからでは、まるでわかり方が違う。若い時に知っていたつもりのことでも、歳をとってからでなければわからないこともたくさんある。
人が死ぬということはどういうことか。確かなことは誰でも死ぬ、という絶対的な事実だけである。誰も自分の死を体験できない。死ぬ瞬間まで生きているし、死んでしまえばもう自分の意識はないのだから。
以上は養老孟司の『死の壁』という本を読んで、頭の中でその反芻をして吐き出したものの一部だ。そういえばEテレの『百分de読む名著』と言う番組では、いま、キューブラー・ロスの『死の瞬間』という本を取り上げている。若い時に読んだ本で、ほとんど中身を忘れていたけれど、この番組ですこし思い出した。処分していないはずだからと思って探したら見つかった。できれば読み直したいと思っている。若い時といまでは、ずいぶんわかり方が違うだろうと思う。
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