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2026年1月

2026年1月31日 (土)

本屋へ行く

 このところ新刊も古本もネットで買っていたが、どうしてもいま読んでいる本などから芋づる式に本を選ぶことになって、本との新たな出会いがない。まだ知らない本が、本屋の棚から「わたしを読んで!」と声をかけてくれるという、心ときめく遭遇をしばらく味わっていない。そこで久しぶりに名古屋まで本を買いに出かけた。目的の本がないではない。

 

 まず名古屋駅から五分ほどのジュンク堂へ行った。少しレイアウトが変わっていて、心持ち手狭になったようだ。目当ての本はすぐ見つかったので、そのあと書棚を探索して歩く。おもしろそうな本がたちまち目に飛び込んでくる。あれも欲しいこれも欲しいと目星をつけていくと、たちまち十冊を超えてしまったが、しかし今回は文庫本を五冊買っただけで打ち止めとした。『聊斎志異』の物語を膨らませて連作小説に仕立て上げた中国の作家の分厚い本など、喉から手が出るほど欲しかったが、また今度にすることにした。その本が五千円近くしたから買わなかったわけではない。いま読みかけの本の山が減らないうちにそんな本を読み始めたら、山はいつまでも山のままであることが目に見えているからだ。

 

 このあと鶴舞まで行って古本屋を冷やかしに行くつもりだったのだが、この調子だとまた読み切れないのに抱えるほど買いそうな気がしたので日を改めることにした。それに寒いし。

 

 いまはコリン・ウイルソンの『アウトサイダー』をベースに、そこに取り上げられた作家の作品を系統的に読み比べている。ヘミングウエイもそこから読み直しをした。今回買った本は、三冊がヘルマン・ヘッセ、二冊がドストエフスキーで、まだ大人になるかならないときに読んだことがあるものだが、残念ながら処分して手元にないので改めて買ったのである。特にヘッセは一時期夢中で読んで、文庫ででているものはすべてそろえていた。波長が合って私には読みやすい外国文学である。またドストエフスキーもふしぎなことに比較的に読みやすい。ドストエフスキーは『罪と罰』も『カラマーゾフの兄弟』も完読できたのは我ながらふしぎである。しかしトルストイは全く読めない。最後まで読めたことがない。

 

 『アウトサイダー』の論じている視点からの読み直しで何を得ることができるのか、楽しみにしている。当分読むものに困らない。

再始動

 二十日あまり、あまり本に集中できない日が続いていたが、ようやく溜まっていた読みかけの本が少しずつ読めるようになってきた。後半を読み残していた池内紀(いけうちおさむ)の『ひとり旅は楽し』を読了した。読むのは何度目になるだろう。この本を読むといつもどこかへ出かけたくなる。後半は特にそういう気持ちをかき立てる文章となっている。池内紀は私より十年年上のドイツ文学者だが、もともと若いときから本格的な山歩きをしていたから健脚だし、ひとり旅の行動範囲の広さはとても及ばない。残念ながらすでに物故しているが、もっと彼の文章を読みたかった。この本を読んだだけでも、彼の見たもの感じたことを共有できるはずで、出かけたいけれど出かけられない人は一度読むことをお薦めする。

 

 先崎彰容『知性の復権』(新潮新書)は先日読了した養老孟司と内田樹の対談本とともに取り寄せた本で、少し前のプライムニュースでゲストとして語っているのを見て、久しぶりに彼の新刊を読むことにした。この本の前半はプライムニュースで彼が語っていたことそのもので、保守とリベラルという構図で世界を見るのは時代錯誤だということがよくわかる。いまの世界は民主主義と権威主義という確執の中にあり、その権威主義の象徴であるアメリカのトランプの生みの親がリベラルの存在ではないかという見方があることを手がかりに、リベラルとは何か、革新とは何かを改めて考察している。そして民主主義の劣化が起きていて、民主主義が本当に正義であるのかを懐疑することで、これからの国のあり方を考えてみている。

 

 人びとがどんどん個別化し、砂粒のようにバラバラになった世界は、本当に人びとを自由にしたのだろうか。生きるしがらみのないことは本当に自由と呼べるものなのだろうか。それに対する答えは、実は先日読んだ『日本人が立ち返る場所』で養老孟司と内田樹が語っていたこととほぼ同じてあるように読めた。日本は明治以来西洋に追いつけ追い越せでしゃかりきになっていたが、気がついてみたらその西洋はすでに衰退の局面になっていて、その原因こそ西洋的価値観にあることにそろそろ日本人は気がつかなければならないということである。日本古来の日本人の価値観をもう一度見直す必要がある。日本人には古いものは悪いものだという考え方がすり込まれ、染みついてしまった。もう一度歴史を見直し、金銭だけを基準にした豊かさとは違う豊かさがあるのではないかと考える必要がある。

 

 私が縄文から古代日本を見直そうとしているのは、自発的だと思っていたけれど、実はこういう論客たちの影響を深いところで受けているからなのかもしれない。

2026年1月30日 (金)

『日本人が立ち返る場所』

 『日本人が立ち返る場所』(KADOKAWA)は養老孟司と内田樹の対談集。二人とも私の敬愛する思索家であって、私の考え方に大きく影響を与えてくれている。それは同時に、わたしが過去蓄積してきた考え方が、二人のものの考え方に共鳴するものがあるから影響を受けるのだと思う。それにしてもこの本はおもしろい。おもしろいというのはわかるからであり、なるほどと思うことが多いからである。あまりにもおもしろいので、本来もっとじっくり読むべきところをどんどん読み進めてしまった。少しあいだを置いて、今度は考えながら精読したいと思う。

 

 引き際、辞去の作法について、私はそのタイミングが読み取れないところがある。場が自分が存在すべきではない場所に変わるそのときを、的確につかむことの難しさを実感した経験が何度もあって、たまたまこの本にそのようなことが書かれている部分を読んで、そんなときのことを思い出したりした。人生もそうだと思う。

 

 危機管理という言葉の矛盾を指摘していた。管理できないから危機なのであって、それが管理できると思うことの愚かしさを笑っている。日本は天変地異や国際情勢で、多分この十年から十五年くらいのあいだに壊滅的危機を体験する可能性がある、と二人は危惧している。私も全く同感である。備えてもどうしようもないような事態が起こりえる。そのときにどうするか。そのときには退場の時期が早めに来たと諦めるしかないのかもしれないと思う。

キューバ

 アメリカ大陸全体を支配下に置きたいというトランプのもくろみの一端が、ベネズエラのマドゥーロ大統領の拉致であった。明らかに国際法的に問題があると思うけれど、トランプの言い分には「盗人にも三分の理」程度の大義名分がないことはないようだ。しかしその他の中南米の国々が今まで以上にトランプのアメリカ合衆国に対する警戒心と反発を増加させたことは間違いない。中国がそこをチャンスと捉えればうまくやれないことはないと思うが、いまの中国にはどうもその余裕がないようだ。ベネズエラでアメリカは何を得て何を失ったのか。その結果が人ごとながら興味がある。

 

 トランプにとってグリーンランドもアメリカの一部であるらしい。その領有化の意思を見せたが、ヨーロッパの反発を招いただけに終わっている。さらにカナダはそもそもアメリカの一部であるかのような発言をしてカナダの激しい反発を招き、カナダの首相が習近平と親しく会談することになった。アメリカの盟友だったイギリスも同様の行動に出ている。アメリカがアメリカ大陸を支配するというもくろみは、今のところ逆にアメリカの孤立という結果になっている。アメリカが信頼できない国だと皆が考えるようになった。信頼できない国からは次第に離れていく。ドルが基軸通貨であるのはそのアメリカの信用に基づいているはずで、信用が失われればドルはその特権的地位を失うことになるだろう。

 

 ところで心配なのはキューバである。十年ほど前に友人とキューバに行ったことはこのブログに何度も書いた。ゲバラについてささやかながら知ることがあり、それをきっかけにカストロの革命政権の樹立に至る歴史も少しは知るようになった。それにヘミングウエイについても思い入れがあった。それらをもとに現地でいろいろ見聞きして学んだことは深く記憶に刻まれている。キューバの国民はひどく貧しい。貧しいけれど陽気に見えた。それは自分だけが貧しいのではなく、皆が貧しいからそれほどそれを恨んだりしていなかったからだと思う。そして為政者も国民同様貧しい暮らしをしているようにみえた。そして貧しいのはアメリカが経済封鎖をしているからであることを皆が承知していた。

 

 たまたまわたしが行った頃は、そのアメリカの締め付けが緩められた時期であり、それを機に観光客がどっと押し寄せていた。特に日本人が急増したとも言う。首都のハバナでは古く傷んだ建物が次々に壊され、新しい建物が立てられつつあった。観光客によって一気に外貨が流入し、観光に携わる人たちはにわかに豊かになって行った。そのときに感じたのは、この偏った豊かさが貧富の差の感覚を生み出し、それについての恨みを増大させないだろうか、という危惧だった。そのあとのことは知らないが、アメリカが再びキューバを締め付け、キューバはまた行きにくい国になったらしい。

 

 アメリカは、キューバ国民はキューバ政府の圧政に苦しめられていると言い立てている。しかしキューバ国民が貧困にあえいでいるのはアメリカが経済封鎖をしているからなのだ。いまベネズエラからの石油の供給が止まり、エネルギーの不足によって電気も不足し、流通も困難を極めているようだ。キューバでもわずかであるが原油は産出するが、重質油であり、量的にも少ないから自活はできない。それに重質油を採掘し精製するための設備も技術もない。深刻な状態であろうと心配している。

Dsc_7046_20260130092301ハバナにて

 今こそキューバ解放のチャンスである、とトランプは豪語する。解放されたキューバが、私の見た貧しい国よりも豊かになるとは想像できない。革命で解放される前の、アメリカに収奪され続けたキューバに戻るだけの未来が見えてしまう。

キューバ

 アメリカ大陸全体を支配下に置きたいというトランプのもくろみの一端が、ベネズエラのマドゥーロ大統領の拉致であった。明らかに国際法的に問題があると思うけれど、トランプの言い分には「盗人にも三分の理」程度の大義名分がないことはないようだ。しかしその他の中南米の国々が今まで以上にトランプのアメリカ合衆国に対する警戒心と反発を増加させたことは間違いない。中国がそこをチャンスと捉えればうまくやれないことはないと思うが、いまの中国にはどうもその余裕がないようだ。ベネズエラでアメリカは何を得て何を失ったのか。その結果が人ごとながら興味がある。

 

 トランプにとってグリーンランドもアメリカの一部であるらしい。その領有化の意思を見せたが、ヨーロッパの反発を招いただけに終わっている。さらにカナダはそもそもアメリカの一部であるかのような発言をしてカナダの激しい反発を招き、カナダの首相が習近平と親しく会談することになった。アメリカの盟友だったイギリスも同様の行動に出ている。アメリカがアメリカ大陸を支配するというもくろみは、今のところ逆にアメリカの孤立という結果になっている。アメリカが信頼できない国だと皆が考えるようになった。信頼できない国からは次第に離れていく。ドルが基軸通貨であるのはそのアメリカの信用に基づいているはずで、信用が失われればドルはその特権的地位を失うことになるだろう。

 

 ところで心配なのはキューバである。十年ほど前に友人とキューバに行ったことはこのブログに何度も書いた。ゲバラについてささやかながら知ることがあり、それをきっかけにカストロの革命政権の樹立に至る歴史も少しは知るようになった。それにヘミングウエイについても思い入れがあった。それらをもとに現地でいろいろ見聞きして学んだことは深く記憶に刻まれている。キューバの国民はひどく貧しい。貧しいけれど陽気に見えた。それは自分だけが貧しいのではなく、皆が貧しいからそれほどそれを恨んだりしていなかったからだと思う。そして為政者も国民同様貧しい暮らしをしているようにみえた。そして貧しいのはアメリカが経済封鎖をしているからであることを皆が承知していた。

 

 たまたまわたしが行った頃は、そのアメリカの締め付けが緩められた時期であり、それを機に観光客がどっと押し寄せていた。特に日本人が急増したとも言う。首都のハバナでは古く傷んだ建物が次々に壊され、新しい建物が立てられつつあった。観光客によって一気に外貨が流入し、観光に携わる人たちはにわかに豊かになって行った。そのときに感じたのは、この偏った豊かさが貧富の差の感覚を生み出し、それについての恨みを増大させないだろうか、という危惧だった。そのあとのことは知らないが、アメリカが再びキューバを締め付け、キューバはまた行きにくい国になったらしい。

 

 アメリカは、キューバ国民はキューバ政府の圧政に苦しめられていると言い立てている。しかしキューバ国民が貧困にあえいでいるのはアメリカが経済封鎖をしているからなのだ。いまベネズエラからの石油の供給が止まり、エネルギーの不足によって電気も不足し、流通も困難を極めているようだ。キューバでもわずかであるが原油は産出するが、重質油であり、量的にも少ないから自活はできない。それに重質油を採掘し精製するための設備も技術もない。深刻な状態であろうと心配している。

 

 今こそキューバ解放のチャンスである、とトランプは豪語する。解放されたキューバが、私の見た貧しい国よりも豊かになるとは想像できない。革命で解放される前の、アメリカに収奪され続けたキューバに戻るだけの未来が見えてしまう。

2026年1月29日 (木)

リベラル?

 リベラルはなぜ衰退したのか、という問いかけには注意が必要である。ここでは衰退が事実として設定されていて、この問いかけこそが衰退を認定したことにつながってしまうからだ。こういう問いかけがいまさまざまな形で横行していて、知らず知らずに「そうなのか」と思わされ、事実としてすり込まれる。ネットニュースの見出しなど、気をつけてみていると頻繁にお目にかかる。

 

 それはそれとして、リベラルは確かに衰退しているように私には思える。そう思うにあたって、そもそもリベラルとは何かあらためて考えると、自分がそれほどよくわかっていないことに気づかされる。現代社会でのリベラルをみて思うことは、リベラルとは差別を言い立てること、そして言い立てている人たちのようにわたしには見える。差別は悪であり、その差別を糾弾し、是正することが正義である、と言う思考法、価値観がリベラルのように見える。差別があるのは確かに良くない。だからその主張は正しい。ではそれなのになぜその考えを進めるリベラルが衰退するのか。

 

 それはその差別撤廃のための正義を遂行しようとするあまり、細部にわたって過剰に差別を言い立てることに皆がうんざりしたからであろう。それくらいはいいじゃないか、という部分まで差別を言い立てるから、世の中をよくするための差別撤廃が、マスコミの過剰な言葉狩りにあるように、世の中を生きにくく面倒くさくさせてしまっているからであろう。正しくても生きにくくなるのはごめんだ、と思う人が増えたからリベラルが衰退したのだと思う。田嶋陽子女史がこの世に溢れたら、誰でもうんざりするだろう。彼女の場合、多分に色物としてうまく生きているようにもみえるから愛嬌だが、本気でいちいち言い立てられたらと想像すれば、うるさくて仕方がない。

 

 それが現実の世の中のきな臭さとは遙かに乖離した部分での正義の言い立てになっていることに、リベラルはあまり気がついているようではない。細部にこだわりすぎて全体がみえなくなっている。それどころではない、もっと恐ろしいことが起こっているらしいと皆が気がつき始めたということだろう。

耐性菌

 昨晩のNHKの『クローズアップ現代』では、『薬が効かない耐性菌 密かな拡散』という問題を取り上げていた。実はわたしにとって人ごとではない問題なのである。わたしが泌尿器科に定期的に検診に行かなければならないのはこの耐性菌が前立腺に棲み着いてしまって、駆除するために三度ほど集中的に抗生物質を処方されたが、完全になくすことができていないからである。体調不良で体力が低下すると暴れ出して泌尿器に不具合を起こす。耐性菌になってしまった理由について私なりの推察はあるが、そのことは後で述べる。

 

 耐性菌については、MRSA(メシチリン耐性黄色ブドウ球菌)の問題がずいぶん前から報じられていた。抗生物質が効かない耐性菌が病院で深刻な感染を引き起こすことがあるという問題である。それ以外にも細菌に効果のある抗生物質の効かない耐性菌はいくつもあるようだ。百日咳でも耐性菌があって治療が困難になる場合もあるらしい。

 

 どうして耐性菌が生じてしまうのか。抗生物質の乱用、そして処方された抗生物質を適正に使用しないことが原因としてあげられる。処方された抗生物質は細菌をすべて殺し尽くすために必要な量を想定して投与されるのだが、症状が軽快化したことで治ったと思い込み、途中で服用をやめてしまうことで生き残りの細菌が耐性菌になることがある。また不必要な場合に抗生物質を乱用することで耐性菌が作られるだろうことは想像通りである。中国などではそれが問題にされていたことが以前報道されていた。それは中国ばかりではないだろう。

 

 細菌とウイルスの違いを理解していない人が多い。抗生物質は細菌には効くがウイルスには効かない。ウイルスによる病気に抗生物質を使っても意味がないのだが、そのことを知らない人が多いのである。これが隠れた乱用につながっている。医師は当然わかっているが、患者が抗生物質薬を求めるのに抗しきれずに、効かないのがわかっているのに投薬する場合があるともいう。

 

 耐性菌に対して効果のある薬の開発が行われているが、それに耐性を持つ耐性菌がまたできてしまう。いたちごっこなのである。全く発想の異なる対象法も研究されているようだ。そういうものに期待したいが、またそれに対しても細菌は変化していくことだろう。

 

 私が想像する私に棲み着いた耐性菌が生じた理由は、虫歯が原因で歯茎まで腫れて治療を受けたときに処方された抗生物質により、歯茎の腫れなどが収まるとともに、たまたま泌尿器系の症状があったのも治ってしまったことがある。そのときに泌尿器系の細菌に対して中途半端な状態で抗生物質が使われたことが耐性菌を生じさせたのではないかと思っている。

 

 結果的に一生耐性菌と折り合いをつけて生きていかなければならなくなった。人ごとではないのである。

2026年1月28日 (水)

ぼんやりと

 睡眠不足気味で何もする気にならず、ぼんやりしていた。本棚から引っ張り出した『梅原猛 日本の深層』という縄文・蝦夷文化を訪ねる旅の写真集(写真は井上隆雄)をずいぶん久しぶりに眺めた。持っていることを忘れかけた本で、三十年ぶりくらいに開いただろうか。ある時期、梅原猛に傾倒してずいぶんたくさん本を読んだし影響も受けた。きっかけは『隠された十字架』という、当時ベストセラーになった法隆寺に隠された謎を、梅原猛の強引な想像力で解き明かしていくという、ちょっと血が騒ぐ本だった。ベストセラーにはなったけれど、しかしこの本を本当に興奮する思いで読み切った人がどれほどいただろうか。法隆寺など、聖徳太子に関連する寺院などの見方が変わった。

 

 この『梅原猛 日本の深層』に取り上げられている場所をいくつか拾い出してみると、夏油(げとう)、花巻、遠野、渋民、恐山、津軽半島、竜飛岬、十三湖、亀ヶ岡、金木、牡鹿半島、羽黒山など。ほかにも北東北の各地を訪ね歩いて思索を重ねている。青森の三内丸山遺跡の全貌がわかったのはこの本が出たあとで、この本ではすでに彼の推論からその可能性が予感されている。

 

 いま名前を挙げた場所はすべて私も訪ねていて、それぞれの場所について写真を見たり添えられだ文章を見ながらね同時に自分が見たその場所を回想した。縄文遺跡を訪ねて歩いて東北についての思いがさらに深くなった。それとこの本とは響き合うものがあり、さらに詳しく知りたいことが増えた気がする。

 

 諏訪の近くに尖石(とがりいし)縄文考古館がある。以前訪ねたことがあるが、いまほど縄文についての知識がなく、おざなりに見てしまった。春になったらゆっくりと訪ね直したいと思っている。信州には古代遺跡がいろいろある。それを調べてみようと思った。また、諏訪大社の由来などについて、少し興味を持ったので、ついでに一番古い前社を訪ねようと思う。

試してみる

 少し前に、白菜の浅漬けに昆布茶を加えるとおいしくなるというのでネットで取り寄せて試したら、分量のせいかどうかわからないが、思ったよりおいしくなかった。そのまま使わずにいたが、もったいないので活用できるレシピを探してみたら、いくつか見つかった。そのうちの一つ二つを試してみている。

 

 いまお気に入りは、昆布茶とシラスを混ぜて豆腐の上に広げておき、さらに小口切りにしたネギを乗せて、上から熱したごま油をかけるという簡単なものだ。もともと豆腐好きだからこれで豆腐一丁を軽く食べてしまう。分量はいい加減なので何度か試して好みの割合を探している。ネギは水でさらしてもいいし、さらさずに辛さとネギ臭さを楽しむのもいい。ただ、問題はごま油を小さなフライパンで熱するのに、煙が立つくらいまで熱したいのに、高温になりすぎるとレンジが勝手に火を極細にしてしまうことで、ネギにかけたときのジュウッという音があまり楽しめない。安全を考えて自動化されているものはこういうときに不便だ。

 

 舞茸のマヨネーズ焼きというのにも塩味として昆布茶を加える。これはまだ一度しか試していない。そこそこいけたが少し入れすぎたのでしょっぱかった。分量を変えてまた試すつもりである。

 

 過日のブログに、スーパーで捜し物をしてうろうろした話を書いたが、あのときに探していたのは塩昆布を細く刻んだものである。刻んだ白菜と豚のバラ肉の薄切りとこの塩昆布とを皿に重ねてラップをかけ、レンジでチンするだけの、料理とも言えない簡単なものだが、塩昆布の塩味だけなのに案外いける。いまは白菜がとてもおいしいし、ありがたいことに昨年と違って今年はだいぶ安い。

 

 運動不足の上に口寂しいからつい間食をしてしまう。さらに晩酌用のつまみとしていろいろと簡単なものを試しに作ったりして、つい作りすぎるから食べ過ぎてしまうし、それに合わせて飲み過ぎてしまう。材料の加減もあって、料理は一人分だけ作るというわけにはいかないものだ。気がついたらまた体重が増えてきて、睡眠時無呼吸症候群が再発したらしい。わたしの場合、睡眠時に苦しくなると口の中を無意識にかんだり舌をかんだりすることがあるからわかるのである。朝起きると口の中に血が混じっていて不快だ。噛んだ傷口が口内炎になる可能性もあってこれも不快である。減量のために摂取と食事量の低減をしなければならないとわかっているのに、つい食べ過ぎ、飲み過ぎてしまう。自分の意志の弱さが情けない。

2026年1月27日 (火)

『やさしい本泥棒』

 『やさしい本泥棒』は2013年のアメリカ・ドイツ映画。『本泥棒(The Book Thief)』という小説を原作としていて、この映画の原題も『The Book Thief』である。題名からメルヘンチックな映画であろうと思いこんでいたし、本好きの身としてもどんな物語なのかと期待して見た。ウィキペディアによれば、上映予定が中止になったので、日本では公開されなかったのだという。確かに劇場で上映するには暗い。

 

 物語は1938年のドイツから始まる。この時代はナチスが台頭し、ヒトラーが絶大な権力者として君臨し、ユダヤ人の迫害が激しくなっていった時代である。里子に出された少女リーゼルの視点からその当時のドイツ社会がリアルに描き出されていく。文字の読み書きができずに学校で惨めな思いをしていたリーゼルは、里親である父から文字を教えられ、次第に文章が読めるようになり、本を読めるようになっていく。

 

 生き死にギリギリの日々の中、それでも本を読む楽しみを生きがいに、隣家の少年ルディとも友達になってリーゼルははつらつと成長していく。そして戦火は次第に激しくなり、空襲も頻繁に受けるようになっていく。ルディの父親も、リーゼルの里親も徴兵されてしまう。そしてついに・・・。

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 とてもメルヘンチックとは言えない時代を暗いトーンで描きながら、しかし前向きに生きる少女の明るさがこの映画の救いである。この映画はナレーションとして声だけ出演のロジャー・アラムがその素晴らしい声で映画に重厚さを加えてくれている。

 

 見て良かった。この映画は素晴らしい。私の記憶に残る作品だ。お薦め。

 これとは別に『少女ポーリーナと七つの迷宮』という映画も見たが、こちらは残念な映画だった。

老醜の果て

 トランプが自画自賛の演説を延々と行ったときに、明らかな言い間違いがたくさんあったことを取り上げて、彼が認知症の症状を呈している、と指摘されていた。そういえばバイデン大統領の末期にも繰り返し同様の指摘があり、それが彼の再選断念につながったことは記憶に残っている。それなのに、そのような事実が再三ありながら、トランプ退陣への流れが見られないのはふしぎなことである。

 

 彼の常識や敬意を欠いた言動があまりにも繰り返されたために、人はそれになれてしまい、それが異常なこととは感じにくくなっているのだろうか。その振る舞いは私には彼の老醜を感じさせるが、そう感じない人がかなりの数に膨れ上がったこの世界にこそ異様なものを感じてしまう。それともみんな諦めてしまったのだろうか。

 

 それに馴れることで、この世のまともな人間ならわきまえるべき規範というものが破られていく。

 

 れいわ新撰組の代表が党首討論の場で、その場のルールとして定められた発言時間についての約束を無視して延々と語り、高市総理を罵倒し、その発言中に割り込む、という振る舞いをして、繰り返し司会者から注意されたらしい。こういう振る舞いが支持者から喝采されることを計算しての言動であろう。トランプの振る舞いの影響がこんなところに現れていると私には思える。常識や敬意を欠いたトランプ的な振る舞いは、若かろうとも独善的な老醜をさらしているのと同じである。人間世界の一部が次第に機能不全になっていき、それが回復しなければそれが広がっていき、その果てに何が来るのか。

 ところでトランプを産んだ母体はなんだったのか。さまざまな要因があるだろうが、私には民主党の自滅に大きな原因があると思う。その民主党の正義のあり方に多くのアメリカ人は怒りをつのらせてトランプを選ぶに至ったのだと私は考えている。ということは、このままではポストトランプは民主党にならずに、さらにエスカレートしたトランプⅡとなるかもしれない。アメリカそのものが老醜状態を深化させていくのだろうか。仲間をどんどん失って孤立していくアメリカに復元する力は残っているのだろうか。

2026年1月26日 (月)

桶狭間

 名古屋へ移り住んだとき、まず感じたのは、山岡荘八の『徳川家康』で知った地名があたりまえにあちこちにあることだった。過去と現在がつながっているのだ、というのがとてもふしぎであり、そしておもしろく感じた。

 それから、司馬遼太郎の『街道をゆく 第四十三巻』は『濃尾参州記』で、冒頭は桶狭間を訪ねるところから始まる。『街道をゆく』はこの本が最終刊であり、この本の執筆途中で司馬遼太郎は亡くなってしまった。この本を読んですぐに桶狭間から笠寺まで歩き回っていろいろ思うところがあった。

 今回『豊臣兄弟』の桶狭間のシーンを見てそのときのことを思い出した。

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このあたりから鳴海まで歩き、さらに笠寺まで行った。笠寺は竹千代(家康の幼名)ゆかりの地である。

Dsc_8274右が竹千代、左が吉法師(信長)

 

ひとそれぞれだが

 パンダが中国に返還されて日本からいなくなることについて、人はいろいろな思いを感じているようだ。中には涙を流して悲しんでいる人までいて、そこまでの思いがない私はその涙が理解できずに、見ていて戸惑ってしまう。そこまで残念に思う人が多い日本人に中国は、日本に対してのお仕置きの効果があった、と喜んでいるのだろうか。そんな仕打ちに対して、日本人が中国について反感をつのらせることになるかもしれないということに思いが及ばないのだろうか。たぶんそんなもの歯牙にもかけないのだろう。高市、思い知ったか、というようなところか。涙を流した人は高市首相のせいだから、彼女を恨むがよい、と思っているのだろうか。涙を流した人は中国の思い通りに考えるのだろうか。

 

 いまアメリカでICEとかいう公的機関であるようなないような組織が、国家の法的ルールを逸脱した自己ルールに従って移民排斥を実行しているようだ。ほとんどトランプの私兵であるかのように見える。これを見ていると、あのヒトラーがナチスを使って独裁権力を掌握していった歴史を思い出すが、それは考えすぎなのだろうか。まさかがどんどん現実になっていった歴史を、また繰り返そうとしていないか。気がついたらアメリカは恐ろしい国になっていた、という悪夢が来はしないか。人は暴力に弱い。

 

 大相撲は安青錦の優勝で幕を閉じた。体を丸くした前傾姿勢でひたすらまえへ出るという相撲の基本を忠実に実行することで勝ち続けた。その基本の教えがいかに正しいかを見せてくれている。私は以前からの霧島のファンで、彼の立ち会いのきれいさと人柄の良さそうなところが気に入っているのだが、大関陥落前後からの不調に心が痛んで大相撲を見る気がしなくなっていた。最近は徐々に以前の輝きを取り戻し、今場所は久しぶりに好調だったのが嬉しかった。ただ、立ち会いの美しさはやや見られにくくなり、駆け引きが混じるようになったのが残念だ。安青錦の方が最初から両手をついて待つ姿勢で、遙かに潔い気がする。グズグズと立つような立たないような仕草を重ねる力士は嫌いである。

2026年1月25日 (日)

『帰郷(2020)』

 2020年の日本映画『帰郷(2020)』を見た。藤沢周平の短編小説を原作として、昨年亡くなった仲代達矢が主演した時代劇映画である。老渡世人がほとんど行き倒れになりかけた状態で、ふるさとの木曽街道のある宿場に帰ってくる。三年で帰ってくると言い残して妻を振り切り、それっきりで帰ることのなかったふるさとは懐かしいが、彼を見知るものは誰もいない。戻れなかったのにはそれなりの事情がある。その凄惨な生き様は自らが招いたものとも言えるし、成り行きでもあった。悪夢にさいなまれ、病躯となったこの渡世人が、その宿場の中でどのような波乱を起こしていったのか。

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 ほかの俳優が演じたらここまでの作品にはならなかっただろう。仲代達矢は主人公そのものになりきって、まさにある男の一生を実際に存在していたかのように眼前に見せてくれた。改めて彼が名優であることを知った。共演が常盤貴子、中村敦夫、橋爪功、緒形直人、そして彼の若いころを北村一輝が演じていて、どの俳優も素晴らしかった。

 

 ギリギリの生き方をしたその生き方は、見方によっては本当に自分の人生を生ききったたということでもあることを思う。周りには大いに迷惑だろうが。

ようやく「ものを考える」モードが始動する

 愛知県西部の当地でも今朝はうっすらと雪化粧である。琵琶湖から関が原、さらに尾張へと雪雲が流れ込んだのであろう。雪は木曽川を越えるとわずかになる。窓から見下ろすマンション中庭の雪は、積雪と言うほどのこともない程度の雪である。川を境に雪の量がふしぎなほど違う。岐阜県は大雪らしい。郡上の北部、長滝白山神社のある長滝あたりは積雪が1.2メートルもあるという。長良川沿いに峠を越える手前にあるこの神社にはよく立ち寄る。雪の多いときには五月の連休でも日陰に雪が残っていたりするところだ。

 

 歳とともにイレギュラーから定常状態に戻るのに時間がかかるようになった。数日間、叔父の葬儀に千葉に行っていただけで、それまで快調に読めていた本が読めなくなり、生活のリズムをしばらく取り戻せないでいたが、ようやくその乱れが収まりつつある。読書はハイペースで読んでいた『剣客商売』全十六巻をちょうど読了したところであり、ここで一区切りとして、少しものを考えるための本を読むことにして二冊ほど新刊を取り寄せた。一冊は先崎彰容の『知性の復権』という本で、もう一冊は『日本人が立ち返る場所』という養老孟司と内田樹の対談本である。

 

 先崎彰容は日本思想史を専攻する学者で、ときどきプライムニュースに出る。いままでに著作を五六冊読んでいる。波長が合うのは、彼の言説がいつも新鮮な視点を提供してくれるからだ。今回読み始めた本の副題は『真の保守を問う』。マスコミでは保守と革新との対立とか、保守とリベラルとの対立とか言う視点で語られることが一般的だが、そういう視点はもう古いのではないかということを丁寧に理解させてくれる。その古いとか新しいという視点は若者の視点でもある。何を古いと考えるのか、そのことが選挙での若者の投票行動にも影響している。

 

 そのほか、いくつもものを考えるスイッチが始動する文章がたくさんあって、少し読んでは思考(愚考)のために立ち止まる。例えば、「世界は民主主義と権威主義という新冷戦状態だ」という。これは先崎彰容のオリジナルではないが、その意味の解釈はいまの世界の状態を理解するのに役立つ。こういう考える時間は気持ちが充実する。

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 当たりまえに使われている言葉について、本来の意味にこだわって考えを重ねる手法は西部邁の手法でもあった。先崎彰容の思想は、わたしには江藤淳の衣鉢を継ぐもののように感じられる。

2026年1月24日 (土)

敬意ある対話

 トランプ大統領が、グリーンランドの首相に「敬意ある対話」を求めたそうだ。およそ他人に対して敬意など払ったことなどないように見えるトランプは、しばしば相手に敬意を求める。今回は相手に対して敬意を払うつもりがあるのだろうか。

 

 古来人間は天にたいして敬意を払ってきた。そして天が人間に敬意を払うことを求めないし、それを期待したこともなかった。だから天に全権を委ねられた皇帝は、敬意を払われることを当然とし、自らが他に敬意を払うことなどなかった。それが皇帝というものであろう。トランプが、習近平が、金正恩が、プーチンが、他人に敬意を払うことなどありそうもない。彼らは現代の皇帝のつもりなのであろう。そのトランプが相手に「敬意ある対話」を求めた。その敬意とは「私に拝跪せよ!」としか聞こえない。

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 敬意とは互いを尊重し、認め合うことで、そこから人間関係は出発する。それが礼儀の基本であろう。それが人間が長い時間をかけて身につけた知恵だったはずなのだが。

そこまで強い執着がわからない

 水戸のネイリスト殺人事件はやはり一種のストーカー殺人ということになるのだろうか。ぬいぐるみに発信器を忍ばせて居場所を把握していた、などという情報もあった。すでに他人の妻となった女性をあきらめられずに執着し続けるなどということが、私には全く理解することができない。しかもその執着した相手を殺してしまうというのは、どう考えても心の働きが壊れているとしか思えない。朝のNHKのニュースの中で、加害者の精神的救済をしているという専門家とその治療(?)を受けている加害者の心の動きが紹介されていた。

 

 人は誰でも何かに執着することはある。ものをコレクションするなどというのもその一つかもしれない。他人からは理解しにくい過剰なコレクションは、執着と言えないことはない。そのコレクションが金であれば守銭奴ということになる。金はあったら便利なものであるものの、そもそも使ってこその金で、ただため込んでも意味がないのに使い切れないほどため込んで、ただひたすらためることが目的になってしまうというのが理解できない。わたしはいくら使ったか、どれほどたくさん使ったか、それが金持ちだと思っている。

 

 強い執着が理解できないのは、私の情が薄いからだろうか、などと考えてしまう。しかし社会的な害悪につながってしまうほど強く捉われると言うのはやはり精神の異常であろう。執着は欲望に似てそれを求めるための努力にもつながる。それが自分の向上につながることがないではないだろう。わたしは執着が弱くても(諦めがよすぎるが)、今のところ社会に害をなすことはないし、多分これからもないと思う。

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 私から見れば、やはりストーカーはサイコパスの一種にしかみえない。

2026年1月23日 (金)

先に延びる

 昨夜から今朝にかけて、眠っているうちに雪が降ったらしい。夜明け少し前に外を見たらマンションの中庭はうっすらと白く雪化粧していた。日が差したらその雪も次第に溶けて、これでは子どもが雪だるまを作るだけの量も時間もなかった。とはいえまだ明日から日曜も降る可能性がある。

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 今週末に夫婦で広島から来る予定だった息子から連絡があり、雪が心配だから二月後半に先延ばしするとのこと。その方が正解であろう。我が家のあたりはたいしたことはなくても滋賀県から岐阜関ヶ原のあたりはいまでもかなり降っているし、日曜にかけても降り続けそうである。息子が来る準備に片付けと掃除を始めていたが、これ幸いと打ち止めにした。これも先延ばしである。

 

 叔父の葬儀などで不在のあいだ、録りためていたドラマやその他の録画があるので少しずつ消化している。たまたまその中にWOWOWの藤沢周平特集があり、合わせて十本近くのドラマや映画を一本ずつ味わいながら見ている。藤沢周平も初期の作品は暗いものが多く、そのドラマ化したものはちょっと重いけれど、それが心にしみる。人生というのはいいことばかりではないし、誰でもどうしようもないつらいことを内に抱えているものだ。たまたま何も問題ない人が人の痛みを理解できず、本当の幸せを実は知ることができないことがあるのは皮肉だ。

キャッチコピーと朝令暮改

 衆議院議員選挙に際して各党党首がいろいろと決意表明をしているのを見ていると、やたらにキャッチコピーめいた言葉を連発する人がいる。社民党の福島女子は昔はそれほどでもなかったような気がするのだが、やたらにキャッチコピーを連発するようになったのは、なんとか石井とか言う人が参加したからだろうか。キャッチコピーは一言で本質を突くような言葉であるから効果があるので、連発したり的外れだったりしては失笑を誘うばかりである。

 

 しばしば政治的なキャッチコピーはレッテル貼りに似る。レッテル張りは複雑な世の中を単純化してしまう。単純化はわかりやすくなるけれど、思考を妨げる。私は害の方が多いと思っている。

 

 朝令暮改という言葉がいまほど歴然と該当する時代はない。トランプという人物により、昨日決めて公言したことが舌の根も乾く間もないあいだに今日は違う言葉に変わる。人はそういうことを恥じるもので、ましてやそれなりの権限のあるものの決めたことはそんなにコロコロ変えられては周りが迷惑する。人は信用を失うことを恐れる。ところがその信用というものが辞書にない人物が世界で最も権力のある座についてしまった。

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 キャッチコピーも朝令暮改も、その裏には大衆など愚かなもので、どうにでもひとは自分の言葉でリードできるという傲岸不遜な心底があるのではないか。

2026年1月22日 (木)

少し長めに

 テレビやスマホからその日その日のニュースを見聞きして、そこから反射的に反応し続けている。しかしそれが積み重なってある程度のまとまった思考につながることはあまりないようで、少し長めに経緯を見直さないといけないと反省している。

 

 ニュースについてもう少し長いスパンで見直すために、その都度メモをしておかないと、少し前のことですらすぐ忘れてしまう。それでは言葉尻だけでものを判断してしまいかねない。

 

 プーチンが五年前、十年前にウクライナについて何を言ったのか。そしてウクライナ侵攻前に何を言い、武力侵攻を断行したときに何を理由にしたのか、そのときに言ったことが半年後に、一年後に、そして今どう変わってきたのか。そういうことを比べてみたい気がする。ほぼ説明のつく範囲の一貫した言葉であるのか、それともとんでもなく変わったのか。私の記憶ではウクライナ東部のロシア親派の住民を守るため、というのが大義名分だった気がするが、違ったのだろうか。

 

 同様にトランプの言動が同じ事についてその都度にどう変わったのか。それを時系列で並べてみたい気がする。それらをいくつも比べたらトランプという人物がどれほど異常であるのかがわかる気がする。普通の人ではあり得ないほどコロコロ変わるのがトランプだ、ということがもちろんわかるだろう。変わること、そのことでひとは振り回され続け、その異常さをわかりにくくされているようでもある。そうしてそれに次第に馴らされて、とんでもない世界に導かれていることを、もう少しはっきりと知ることができる気がする。

 それとは別に、最近感じたのだけれど、マスコミは伝えるニュースの選別に恣意性があるようだ(いまごろ気がついている)。当然伝えるべきものを外したり、その伝え方の軽重に首をかしげることもときどきある。それは私の価値観との違いによるものだと思っていたが、陰謀論と言うほどのものではないものの、どうも意図を持ったバイアスがかかっていると感じられることがあったりする。

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 やはりものを考えるためには、比べるという作業が必要なようだ。

2026年1月21日 (水)

さっきから

 スーパーが改装されて売り場が広くきれいになったことはたいへん良いのだが、元の場所から移動したものもかなりあって、ここら辺にあったはずなのだがと思いながら、迷うことが未だにある。今日も細切りの塩昆布が欲しいのに、以前あった乾物のコーナーに見つからず、うろうろと店内を探し回った。それを見かねたのだろう、おばあさんが「あんた、さっきから何を探しとるだね」と声をかけてきた。「聞いた方が早いがね」と言われてしまった。その通りなのだが、探すのも楽しみであり、それで新たにここにこんなものがある、という発見もあるのだが、そんな言い訳をすれば負け惜しみにしか聞こえないであろう。

 

 店員に声をかけたら、もちろんたちまち見つかった。思ってもいない場所ではあったが、そのコーナーの品物を見れば、別におかしな場所に移動されていた訳でもなかった。

 

 どうも一人でうろうろしていると、しっかりと見ている人がいるのだといまさら思い知った。ありがたいのはありがたいが、もしかして徘徊老人に見えたのかなあ・・・。

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水に落ちたイヌ

 アメリカのベッセント財務長官が、アメリカの長期金利が上昇している(トランプ政権としては下げたい)のは日本のせいだ、と言ったらしい。それらしい根拠を述べてもいるようだが、専門家はほとんどトランプがグリーンラントについて理不尽な行動をしていることでヨーロッパ諸国と関係がこじれているのが理由だとしているのに、どうして日本のせいだなどというのか、日本人には理解不能であろう。それにしても、多少は理性的であるようにみえているベッセントにしてこんなことを言うというのも、アメリカがますます変な国になってきたことの証拠のように見える。

 

 日本はおかしないきさつから中国に不当な扱いを受けていて、その被害の影響を受けているときであり、アメリカとしては日本叩きなどするのはおかしいと思うが、世界というのは弱いものを叩くのが当たりまえの、非人情の世界であるらしい。日本が水に落ちたイヌならそのイヌを叩くのが常套手段なのだろう。日本も早く自ら水から上がって叩く側に回らないと、ますますひどいことになりそうだ。今度の選挙で政情が混迷すれば、多分ますます叩かれることになる。ますます円安が進み、それによって物価はますます上がるだろう。

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2026年1月20日 (火)

なにがしたかったのか

 立憲民主党の岡田議員が高市総理に対して日本の存続危機事態とは何かをくりかえししつこく尋ねた果てに「台湾に中国が武力攻撃を行い、それを阻止しようとした米軍が武力攻撃を受けたときは、存続危機事態にあたる」という答弁を引き出した。日本とアメリカは同盟国であり、日本国憲法の制約の範囲内とはいえ、日本としてはアメリカに与(くみ)する、ということについての明言であり、いままでは曖昧にしてきたこととはいえ、当然のことを言ったにすぎないと私は思っている。あの国会でのやりとりをリアルタイムで見た人は当然そう思ったと思う。

 

 それが何時の間にか日本が台湾に武力侵略を企てているかの如き中国の反発を招いてしまったことは不思議な流れで、中国の曲解を専門家が無理矢理解釈して見せるが、とても納得できるものではない。立憲民主党や一部の野党は、高市首相に発言の撤回を求めたりしていたが、一度言ったものは言わなかったときに戻すことなど出来ないことであるし、もし発言撤回をすれば今度はアメリカから激しいそしりを受けることになるだろう。それはアメリカが攻撃されても、日本は何もしませんというように受け取られることは必然だからだ。

 

 ところでその高市首相の発言を引き出した岡田氏や立憲民主党は、それを手柄顔に言い立てるつもりが、あまりの中国のリアクションに驚いたのか、そのあとほとんど何も言わなくなった。ではそもそも岡田氏はいったい何をしたかったのだろうか。私には理解不能で、とにかく高市首相のせいにして知らんぷりを決め込むつもりなのだろう。それにしても公明党とにわかに組んで、安保法制は違憲ではないと明言したらしいが、そもそも岡田氏は安保法制の問題点を指摘するためにあれだけしつこく質問をくりかえしたのではなかったのか。意味が分からない。

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世界は、そして日本はどうなっていくのか。

2026年1月19日 (月)

一日仕事になった

 叔父の葬儀に弟夫婦と三人で参列した。ささやかな家族葬、と聞いていたのに三十人近くの、そこそこの人数が参列した。お経も長かった。お経を聞きながら叔父とのあれこれを思い出していた。告別式が終わって出棺、そしてマイクロバスで火葬場に行き、会食して身内同士の消息も含めて親類同士で歓談する。数年ぶり、十年ぶり、果ては三十年ぶりに会う人もいた。今回従兄弟、従姉妹たち三人と久しぶりに会った。会えば昔話に花が咲く。叔父の引き合わせだ。

 久しぶりに会った叔母は一回り小さくなってみえたが、今の時点では気が張っているから元気でにこやかだった。しかし帰った後でぐったりしないかどうか心配だ。お骨を拾い、葬儀場に戻り、挨拶を受けてすべてを終えて帰宅したら夕方になっていた。私も弟夫婦も気疲れでぐったりした。

 明日は千葉から名古屋に帰るつもりである。

 

大勢で賑やか

 昨朝名古屋を出発し、新東名で千葉へ走った。日曜日だからトラックが少なくて走りやすいはず、と思ったら案外トラックが多かった。以前よりスピードは出さなくなったから、トラックの遅いのにもイライラしない。さいわいどこにも渋滞はなかったから、途中で食事をしても千葉の弟の家まで五時間半くらいで到着することができた。四百キロ強の距離である。途中、霞んではいるが雪をかぶった正しい姿の富士山がハッキリ見えた。

 到着してしばらくしたら妹もやってきて歓談。しばらくぶりだったので、互いの近況などを話す。しばらくして弟の娘が子供たちを連れてやってきた。さらに夕方になって弟の長男家族が加わって大いに賑やかなことになった。妹は用事で帰ったが、残りのみなで夕食のテーブルを囲む。暮れから正月以来ずっと一人で過ごしていたから、この賑やかさがなかなか嬉しい。弟とつい飲み過ぎてしまった。

 今日は叔父の葬儀。家族葬だから参列者は叔父の子供たち(娘ふたり)と孫たち、そして私と弟夫婦だけだという。従姉妹たちや叔母と会うのはずいぶん久しぶりである。叔父の思い出を語り合うことになるだろう。

2026年1月17日 (土)

映画音楽を聴きながら

 叔父の葬儀に参列するため、明日から千葉に行く。その支度を終えたので、ぼんやりと古い映画音楽を聴いていた。音楽を元にその映画のいろいろなシーンや俳優のことを思った。西部劇の名曲では、『大砂塵』の主題歌『ジョニー・ギター』(ペギー・リー)、『帰らざる河』の主題歌『帰らざる河』(マリリン・モンロー)、それに『シェーン』の『遙かなる山の呼び声』(ビクター・ヤング作曲)などがとくに心に沁みたと同時に、さまざまなことを連想した。

 

『ジョニー・ギター』を歌ったペギー・リーは私のお気に入りの歌手で、アルバムを二枚(スタンダード・ナンバーとジャズセッションのアルバム)持っていてときどき聴く。『大砂塵』ではヒロイン役のジョーン・クロフォードが忘れられない。この人は美人と呼んでいいのかどうか分からないほどすごみのある女優で、そう思うのは『何がジェーンに起こったか?』という恐ろしい映画の印象があまりに強烈だからかもしれない。『何がジェーンに起こったか?』は、競演が名女優ベティ・ディビスで、見ないのがもったいないほどの名作だと思う。

 

『帰らざる河』のマリリン・モンローは最高である。ロバート・ミッチャムも好い。西部劇の恋愛映画といえばいえるが、激流を行くシーンは迫力満点で、ラストのハッピーエンドが幸せな気持ちにしてくれる。マリリン・モンローはこの映画と『ナイアガラ』という映画でのモンローが好きである。このラストシーンも印象的だ。

 

『シェーン』は主演のアラン・ラッドも好いけれど、敵役の黒シャツの殺し屋を演じたジャック・パランスが大好きで、ほとんど脇役だが、彼の出る映画はずいぶん見た。『残酷の沼』というカルト映画も忘れられないし、『ゲバラ』ではカストロを演じていた。その時のゲバラ役はオマー・シャリフで、二人ともピタリと役にはまっていた。後年キューバへ行く機会があって、行く気になったのはその映画が記憶にあったからだ。もちろんジャック・パランスといえば、名作映画『バクダッド・カフェ』の老画家役も忘れられない。

 

あの朝を思い出す

 少し早めに起きてテレビをつけたら、阪神・淡路大地震の追悼式の様子が映されていた。地震のあった時間の黙祷のシーンであった。あの朝を思い出した。名古屋でもはっきりした余震のあとにしばらくしてかなり揺れたから、これはどこかで大きな地震があったなと思った。当時は明日にでも東海地区に大地震があると騒がれていた時期であり、てっきり浜松あたりで地震かと思ったら、西の方の地震であった。勤めていた会社は大阪が本社であるから、急いで出勤して本社に様子を訪ねた。最初は連絡がついたが、電話が混み出したらなかなか連絡がつきにくくなった。次第に被害の深刻なことがわかり、被害を受けた社員も多かったが、工場を含めて会社自体に被害はなかった。何年か前に淡路島にそのときできた断層を見に行った。

 

 昨日は妻の病院へ支払いと面会に行った。妻との会話はますます通じにくくなっている。自分が何歳か、今年が何年でいまは何月何日何曜日なのかもわからなくなっている。本人は今年還暦なのだという。私は喜寿だと言ったら、「へえ、そうなの!」と別にふしぎそうでもなく相づちを打っている。食べ物の話が多くて、病院の食事の好きなものを次々にあげたあと、正月に雑煮が食べられなかった、と言った。餅は喉に詰まらせる患者がいるから出せないようだ。食べたいものがあるのに病院ではでないから、退院させろと言う。残念ながら無理である。顔色が悪くないことだけが救いである。ふつうは面会時間は二三十分なのだが、次の面会者がないからだろう、だいぶ過ぎたのに面会終了の声がかからなかった。終わったらどっと疲れた。

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2026年1月16日 (金)

信用できない

 いまのアメリカは信用できない。トランプだから信用できなくなったのだけれど、トランプの退場のあとにアメリカがまた信用できる国に戻るかどうか疑わしい。そもそも「信用」というものを大事なものだと考える価値観をアメリカは失ってしまったのではないかと、近頃の振る舞いから思わせられている。言うことがコロコロ変わり、約束を平気で破る人間が代表する国と約束することは無意味である。そんな国は衰退するしかないと思う。衰退しつつあることにおびえて、どうにか踏みとどまろうとしているのかもしれないが、世界がアメリカに不審の目を向けていては、いまはまだ強力であるから我慢して付き合っているが、本気で味方をする国は次第に減っていくだろう。

 

 同盟国だろうが敵対国であろうが見境がないようでは、同盟している意味がない。アメリカは、EUを、そしてNATOをほとんど見放しているとしか思えない。それなら日本や韓国など、なおさらどうでもよくなっていくだろう。

 

 アメリカが東アジアから手を引き、日本も韓国も丸裸になる可能性がある気がする。そのときは、残念ながらいまの力関係では中国に丸呑みされるしか日本に生き延びる道はない。それは今すぐのことではないだろうが、日本はどんどん衰退しているから、あり得ないことではないと思っておく必要があるのではないか。その前に中国も衰退してほしいが、なかなかそうなるのは時間がかかりそうだ。全く新しい東アジア情勢になっていく予感がしてきた。

 

 日本にとっての最悪のシナリオは、南海トラフ大地震の発生である。その被害は歴史的な記録にあるレベルであれば、東日本大地震どころではない。国家経済は破綻に瀕する恐れがある。少子化というのは、もしかしたらその災厄の予感から生じているのかもしれない。日本は一気に弱小国になるかもしれない。どうも気力が落ちると不吉なことばかりを想像してしまう。

熱田神宮にお参りする

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毎年一月十五日には熱田神宮に初詣する。病院に行って待たされたけれども昼過ぎには検診が終わって、正月明けとしてはまずまずの血糖値であったので、安心したその足で熱田神宮へ行った。十五日には神事があるのでそこそこ賑わう。

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手水舎のまえから大楠をとる。

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寸志を投じて拝礼する。

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神事(弓)が終わって去って行く神主たち。

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神事に使われたもの(竹や藁)を分けてもらう人たち。

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四季桜。

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こちらは咲き始めたばかりの梅。

いつもはゆっくり巡る熱田神宮を、駆け足でお参りして帰宅した。病院でスマホをマナーモードにしてそのままだったので、妹からラインが来たのに気がついたのは夜遅くだった。これから連絡するつもりだ。

2026年1月15日 (木)

病院へ行く

 来週、糖尿病の定期検診なのだが、叔父の葬儀に行くので受診できない。電話で病院に連絡して予約はキャンセルしたが、糖尿病の専門検診医は月曜日しか検診がない。そして月曜日には私もいろいろ予定が重なっている上に、医師の都合での休診などもあって、予約ができるのはだいぶ先になってしまう。それに予定日の変更はできても薬はもらわないとならない。電話で一応の打ち合わせはしたが、検査を受けて別の内科の医師に暫定的な検診してもらって、きちんとした予約日を確定させて、その間の薬をもらわなければならない。そのために今日病院へ行くことにした。だから早めの夕食後はお茶と水以外摂取していない。

 予約なしの検診なので、だいぶ待たされることだろう。本でも読みながら待つことにする。

2026年1月14日 (水)

考え直す

 急死した叔父のことが頭から離れずに何も手につかずにいた。叔父から、「どうにか都合をつけてこれないか?」と声をかけられているような気がして仕方がない。

 

 来週の葬儀の日の前後にたまたまさまざまなことが重なっていて、しかも体調も万全ではないけれど、考え直して、行くことにした。とりあえず昼から夕方にかけて、すべての先に連絡をして日延べを頼んだ。不義理になるところもある。しかし人生の不義理とならないことを優先することにする。どうしようもないところには後で謝りに行くしかない。

 

 なんとか段取りがついたので、叔母に改めて葬儀に参列する旨を伝えた。叔母は喜んでくれた。亡くなった前後のことなどを聞く。叔母もまだ興奮状態で気が張っているから、声は思いのほか明るい。子どもや孫たちもいるからなんとか気が紛れているようだ。

 

 少し前に、いつ何があるかわからないから一度叔父のところを訪ねよう、と話していた矢先だったから、行かなかったことを後悔している。

叔父の訃報を聞く

 昨晩、叔父(母の末弟)が亡くなったと叔母から電話があった。92歳になりました、と記した年賀状をもらったばかりで、叔母によると前日まで元気にしていたのに突然の死だったようだ。来週初めに家族だけの葬儀をするという。叔母は私にも来て欲しそうだったが、用事があっていけないと断ってしまった。どうして断ったのかわからない。しかしもう断ってしまった。弟に代わりに行ってもらうことにした。叔父夫婦は弟の仲人でもある。

 

 そのあと眠れなくなってしまった。叔父のことがさまざまに思い出された。仕方がないから起き出して、本を読んだ。気がついたら二冊も読んでしまい、朝になっていた。一眠りして起きたら、いまはなんだか虚脱したようになっている。

2026年1月13日 (火)

「対症」と「予防」

 またまた内田樹の本を読んでなるほどと思ったことについて。

 

 システムは放っておけばかならずどこかで不具合を起こす。
 この不具合がもたらす被害を限定するためには二つの方法がある。
「対症」と「予防」である。
「責任を徹底追求して、二度とこのような不祥事が起こらないようなシステムを構築します」という考え方を「対症的」という。
「二度とこのような不祥事が起こらないシステム」などというものは人間には構築できない。
 不祥事を阻止できるのはシステムではなくて、その中で働く固有名を持った個人だけだからである。
 ここにミスがあるとする。誰が犯したミスだか知らないけれど、放置しておくといずれ災厄を招きかねない。だから、「私の責任において」これを今のうちに片付けておこう。
 そう考えるのが「予防」的な発想である。
(中略)
「それはわたしの仕事じゃない」
 これがわずかなミスを巨大なシステム・クラッシュに育て上げる「マジックワード」である。
「いいよ、これはオレがやっとくよ」という言葉で未来のカタストロフは未然に防ぐことができる。
 けれどもカタストロフは「未然に防がれて」しまったので、誰も「オレ」の功績を知らない(本人も知らない)。
 成果主義は、この「成果にはカウントされないが、システムの崩壊をあらかじめ救ったふるまい」をゼロ査定する。
 だから、完全な成果主義社会では、システム崩壊を未然に防ぐ「匿名で行われ、報酬の期待できない行為」には誰も興味を示さない。私たちの社会システムはそんなふうにして次第に危険水域に近づいている。

 

 迂遠ではあるが、誰の責任か問うまえに、「私がやっておきます」と言えるような大人をひとりでも増やすしか危機を救う手立てはないのだと、内田樹は最後を締めている。同感であるが、さて自分がどうであるか、いささかは自ら引き受けたという自負はあるものの、責任を問うことの方に忙しかったのではないかと反省している。

「ゴミを拾う人はゴミを捨てない、ゴミを捨てる人はゴミを拾わない」という言葉の意味の深さをいつも感じている。自分が捨てたのではないゴミを拾う、そこから始めて、誰もがそれが当たりまえにできるようになれば、世界は少し変わる気がするのだが。

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格差社会

 小説を読んでいる時はひたすら先へ読み進めるばかりなので、ストーリーを追いすぎてスピードが上がりすぎて読み方が雑にならないように、ときには休憩を入れる必要がある。随筆や評論文を読むときは、引っかかるところでときどき立ち止まる。書かれていることについて考えなければならないと感じるからだ。しかし読む流れは止めたくない。だから付箋をつける。そうして一区切り読み進めたところでその付箋の部分を改めて読みなおす。あるまとまりを読んだ上でその部分の意味を考えることができる。すでに自分が思っていたこと、考えたことと重ねて、自分の頭の中を組み替えるようなものに出会うことも多い。自分がそれによって変わる、変えられる、そのことが読書の楽しみ、考える楽しみだ。

 

 内田樹の本をずいぶん読んできて、そろそろ一部を処分しようと思いながら読み直している。彼の本を読んでいると付箋だらけになる。同じ歳生まれで、同じ時代背景を経験していることもあって、彼の言うことが理解しやすいということもあるし、遙かに深い思考と、さまざまなことの関連を引き出すその知性に敬服している。いま読んでいる本から『格差社会』とは何か、と言う文章について一部引用する。

 

 「格差」とは何のことなのか?
 メディアの論を徴する限りでは、これは「金」のことである。平たく言えば年収のことである。
(中略)
 ここから導かれる結論は論理的に一つしかない。
「もっと金を」である。
 しかし、果たしてこの結論でよろしいのか。
 わたし自身は、私たちの社会が住みにくくなってきた理由のひとつは「金さえあればとりあえずすべての問題は解決できる」という拝金主義のイデオロギーがあまりに広く瀰漫したことにあると考えている。
「格差社会」というのは、格差が拡大し、固定化した社会というよりはむしろ、金の全能性が過大評価されたせいで人間を序列化する基準として金以外のものさしがなくなった社会のことではないのか。

 

 このあと、格差をなくすために「もっと金を」と言い立てることが、実は「金の全能性」をさらに助長し、格差を固定化していないか、と疑問を投げかける。そして、人の社会的価値を考量するときのものさしを見直すことを推奨する。全く同感である。そんなことを言えるのも、おまえが金に困っていないからだろう、と言われるかもしれない。そういうことを言われると、そうですね、と言って黙るしかない。ループから出られない人には何を言っても通じないと思ったりする。

 

 トランプが絶大な権力を持つことになったのも、そのループの極地に彼が立っているからだろう、などと思う。

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2026年1月12日 (月)

読書とお勉強

 出かける気にならない陽気だったので、今日は一日読書とお勉強三昧で過ごした。放送大学の特別講座で「熊本地震の六年後」前後編を見る。活断層の地震というものがどういうものだったのか、そして極めて珍しい二度の震度7の地震が立て続けに起こった背景などについて学術的に解析し、現在の地震学の現状を紹介していた。また、直下にあたった益城町や南阿蘇村のその後の防災対策、住民の意識調査、その啓蒙の様子を知ることができた。日本はいつどこで大きな地震が起こるかわからないことを改めて思った。本箱が倒れないような対策を一部しかしていないので、早めにすべてに対策を施すことにしようと決めた。それと、玄関のドアが極めて頑丈なので、地震でもし開かなくなった時には閉じ込められる危険がある。警報があったら真っ先に玄関を開ける必要があるが、できるかどうか。

 別に岩石から見た地球の歴史についての特別講座や、ロシアのウクライナ侵攻についての国際情勢分析などの特別講座も見た。本は相変わらず池波正太郎の『剣客商売』シリーズを読み続けている。11作目の『勝負』を読了したところだ。ほかに山本夏彦、養老孟司などの本も合わせて読んでいる。

 昨日は、娘に小泉八雲の話をして先般読了した関連の本四冊を見せたら、欲しそうにするので、惜しかったけれど土産に持たせてやった。土産をいろいろと持ってきてくれたお返しである。

 

予報通りの雪

 昨日は強い風が吹き続いていて、夜、予報通りに雪が降り出したらしく、マンションの中庭が白くなった。今朝は一面が白くなっているけれど、せいぜい1センチほどの積雪か。雪のせいか祝日のせいか、当たりは静かである。成人式の参加者はこの雪の中でたいへんだろうと思った。

 昨日は娘夫婦が正月の挨拶にやってきて、夕方二人で仲良く帰って行った。言うと嫌がるけれど、娘は少しふくよかになっている。娘の亭主に父親の様子を聞いた。夜、眠れずに本をいつまでも読みふけってしまった。

2026年1月11日 (日)

ざっと片付ける

 午後から娘が来るので、ざっとリビングを片付けて掃除した。もっと丁寧にしたいけれど、どうもその気力がない。息子から連絡があり、月末に夫婦でやってくるそうだ。その足で伊勢神宮へお参りにいくつもりのだという。

 

 来月初めには毎年恒例の新酒会になじみの酒蔵に行く。久しぶりに会う友達もいる。そのひとりが外せない用事ができてどうしても都合がつかないと連絡があった。残念なことである。

 

 今日は晴れているけれど風が強い。夜からは寒気とともに伊吹山のほうから雪雲も流れてくるらしい。明日朝までに積雪も予報されている。またノーマルタイヤで立ち往生したり事故を起こす馬鹿者がいるだろう。

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さすがに、こんなには降らないだろう。

2026年1月10日 (土)

知多行

知多へ海を見に行った。

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海の風は冷たい。港内は波が静かで、いつもいる釣り人はさすがに寒いからか、誰もいない。

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漁船も皆係留したままだ。

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魚を見に行く。フグの身が売られていたので鍋用に購入。ついでに一夜干しのフグも買う。さらにワタリガニのゆでたものが売られていた。足がもげていたのを安くしてもらい、一パイ購入。これで今晩は豪勢な夕食になる。

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魚ひろばのシンボルに見送られて、海を見ながら帰路についた。気分が晴れた。

2026年1月 9日 (金)

『ひとり旅は楽し』再読

 暮れから引きこもり状態で、ひたすら本を読んできた。目を酷使したことと、姿勢がいささか悪い状態が続いていたので、首がこわばり、肩の周辺がガチガチに固まってしまった。いまは池波正太郎と山本夏彦と養老孟司の本を集中的に読んでいるが、少し目先を変える意味もあって、繰り返し読んでいるドイツ文学者の池内紀の『ひとり旅は楽し』(中公新書)という本を久しぶりに読み直した。

 

 ドイツ文学の翻訳を二三読んで池内紀を知ったけれど、それがたまたまこの『ひとり旅は楽し』で彼の紀行文やエッセーの虜になり、本棚には二十冊あまりの彼の本が並ぶようになった。彼の言う「旅」について、大いに影響を受けて世界の見え方が変わったのがこの本である。この本を読むとどこかへ出かけたくなる。

 

 そこで三週間ぶりくらいに少しだけドライブに出かけた。気持ちが少し切り替わってすっきりした。明日は知多半島へ行って、今年初めての海を見ようと思う。そして何かおいしそうな魚でも買って、夜は鍋でも作ろうと思う。

 

 明後日の日曜日には娘夫婦が正月の挨拶にやってくる予定だ。娘の旦那の親は四国なので、たいてい我が家に来るのは松が開けてからになる。亭主の父親はいま入院中らしい。詳しいことはやってきてから聞くつもりだが、あまり思わしくないらしい。正月の電話では、今月末には息子がくるつもりだといっていたが、まだ連絡がないのでいつになるかわからない。世間とは月遅れの正月になりそうだ。

キューバが狙われている?

 トランプの暴走はとどまるところを知らず、それをとめようとしたらどんなとばっちりを受けるかわからないから、その暴走を誰も止められない。あたかも絶対的な権力を与えられた暴君そのものである。ゴルゴ13の登場を願うしかないのだろうか。ところで今回のベネズエラ関連の暴挙については、表に出てトランプのフォローをしているのがルビオ国務長官であるのが気になっている。もともとキューバ難民をルーツにしたルビオは、キューバに深い怨念を抱いている。アメリカにいるキューバ難民の一部は、キューバの国に深い怨念を抱いている。

 

 キューバは長くスペインに統治された植民地で、奴隷によるサトウキビ農業でスペインに巨万の富をもたらしていた。そのスペインが国力の衰退により撤退し、それを引き継いだのがアメリカで、キューバの砂糖で莫大な富を蓄積したアメリカ人はアメリカの財閥にのし上がった。その支配層に与して利益を上げ、豊かな暮らしを謳歌していた一部キューバ人たちがいた。アメリカはキューバを植民地としてではなく、傀儡政権を操ることでキューバを支配した。いつものスタイルである。その傀儡政権を革命によって倒し、アメリカを追い出し、極貧にあえぐ国民を解放したのがカストロであり、ゲバラであった。そのときに多くの富裕層のキューバ人がアメリカに亡命した。それがルビオたちのルーツなのである。彼らはキューバ解放を夢見ている。そしてアメリカは、革命によって失った富は奪われたものだ、としてキューバをとことん敵視し続けてきた。

Dsc_6919_20260108190701キューバにて

 わたしは、トランプの暴走が、ルビオの何らかのささやきかけによるものではないかと疑っている。同時にそれは、トランプの取り巻きたちが、中国とことを構えることがアメリカにとって得策ではないと考え、それをそらそうとしてのベネズエラであり、コロンビアであり、パナマであり、キューバであり、グリーンランドなのではないかと疑っている。それがこれからの世界にどのように影響するか、最悪を考えると恐ろしい。

2026年1月 8日 (木)

責任者を明らかにしろ

 中部電力の浜岡原子力発電所再開の監査のデータに意図的な改ざん、ねつ造があったことが明らかになった。論外である。これで中部電力は当分の間原子力発電所の再開は不可能になった。そのことで電気代が高くなるとしたら、中部電力の電力を使う身としてはそのコスト増を引き受けざるを得ないだろう。人ごとではない。事後処理として、誰がその改ざんねつ造を行ったのか、指示したものがいたのかいなかったのか、それを明らかにしてほしいものだ。してはならないことをしたら、その責任をとらなければならない。それが曖昧に終始したとしたら、それは中部電力の会社の体質そのものに原因があるということになる。経営者、関連部署の管理職はすべてその責任をとる必要があるだろう。

 

 しかし日本という国は、大抵こういう場合いつの間にかうやむやに終わる。私は糾弾したり正義の刃を向けるつもりはない。ただあまりにも信じられない不正行為に思わず我を忘れてしまって、ここに怒りを書き記さずにはいられなかったのだ。

 

自分探しとは

 昨日は朝から心身ともに絶不調で、何もやる気にならず半分寝ていた。めったにないことで、それだけ寝たのに夜も眠ることができたことに自分ながらあきれた。今朝は多少ましである。

 

 ひところ「自分探し」の旅などというのかはやった。では探している自分とは何か?と思ったものだが、日常を離れる旅と関連付けられていることから、自分が縛られている見かけの世界と違う世界と触れ合い知ることで、固定観念から抜け出して世界観の構築のし直しをするという意味だったのかと、肯定的に見てもいいかなと思ったりもした。

 

 自分が世界を見ている、その自分とは何か。それがわからないから「自分探し」をするのだろうか。では「自分探し」の旅人は、旅に出たらそれがみえたのだろうか。試しに私もいろいろ旅をした。私は積極的に自分を探さなかったせいだろうか、どこにも自分など見つからなかった。自分は外にはいないようであった。世界から見られている自分だけがいて、その世界を通してしか自分はどこにいるのかわからないのだな、ということだけがわかった気がした。そうして自分はその世界の一部であり、すべてでもあるらしい。

2026年1月 6日 (火)

不安煽動者

 昨晩のBSフジプライムニュースで与那覇順が、不安を煽る者が意識が高いと思われる風潮に対して異議を唱えていた。不安を煽る者が意識が高いと見なされているかどうかは知らないが、不安を煽る者は、こんなにたいへんな事態が起きているのにのほほんとしていていいのかと警鐘を鳴らす者で、自分の意識が高いのだという自意識を持つ者であるということについてはそうかもしれない。

 

 ここ何回かの自分自身のブログを思えば、その内容はまさに不安を煽るもので、つまり私はその不安を煽る者であることになるからいささか忸怩たる思いがした。自分の中に、自分は意識が高いのだ、という思いが全くないとは言わないが、そういうことよりも、何より自分自身が不安であるからそのことを書いたつもりなのだが。

 

 意識的にか無意識的にか不安を語る者は古来からいて、何もいま特に多く出現したのではないと思う。今起きていることを見て、過去の知見を重ねて将来を不安に思うことは、想像力のある者なら自然のことでもある。ただ、意図的に不安をことさらに大げさに言うことで注目を引こうとしているのなら、それは問題だという点については同意する。

 

 正常性バイアスというものがある。危機的状況においてもこれくらいならまだ大丈夫、他の人も別に平気そうであるから心配ない・・・と思いたい心の働きのことである。セウォル号事件のときの乗客の行動など、正常性バイアスにより、まさかと手をこまねいているうちに危機回避をする機会を失ってしまう。不安にはそういう危機回避のための役割もあるのだと思う。今の状況に不安を覚えない方がどうかしていると思うと同時に、その不安を無意味に煽ることは確かに控えるべきかとも思う。

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雑感

 何かことが起きるとテレビなどでさまざまなことを言う人がいる。その同じ人の、直後としばらく時間がたった時の言葉が違っているように感じることがあるのだが、確認のために両方を比べたいと思う。書かれたものならそれを比較できるが、テレビでは言いっぱなしである。テレビはわざわざ並べて見せてくれない。とはいえ、いちいちメモしてもいられないから、記憶に頼るしかない。その記憶がお粗末なのが残念である。そう思うのは、比較できれば語ったその人を知ることができると考えるからだ。そうしてその人の言葉を次には聞きたくないと思うか、その言葉に耳を傾けるか判断できるのだが。

 

 新年の抱負のようなものを政治家が語っていた。ニュースの中だから断片を報じていることは承知している。それで感じたことは、国民民主党の玉木代表が「国民のため」という言葉を繰り返していたのに対して、立憲民主党の野田代表は、ただひたすら自民党の問題点を追及し、高市政権を追い込み、予算を通させないようにして、政権を目指すと語っていた。わたしは野田代表の「国民のため」という言葉を聞き漏らしたのだろう。

2026年1月 5日 (月)

言うべきことが言えない

 私はトランプがベネズエラに武力介入したことは暴挙だと思っている。ベネズエラのマドゥーロ大統領が悪逆非道の人物であれ、それが他国で軍事行動を起こす正当性の根拠にはならない。なぜなら、それが正当であると認められれば世界の秩序が崩壊しかねないからだ。例えば中国の習近平は、日本が軍国化し、中国の内政問題(台湾)に介入しようとしている悪逆な国家であると決めつけて非難しているが、だから日本を攻撃してもよいと判断するのとどう違うというのだ。台湾問題はすでにそういうレベルに膨らみかけている。

 

 日本としてはそういうきな臭い国とは距離を置きたいところだが、中国ともロシアとも北朝鮮とも海を挟んで国境を接した隣国であるし、アメリカとも深い関係、と言うより深すぎる関係があって対岸の火事というわけにはいかない。

 

 どこの国もトランプが狂った、と内心では思っている。思っているけれど、それを非難することができない。狂ったトランプの狂気の槍先がいつ自分にむくかわからないから言いたいことが言えない。高市首相だって、トランプがとんでもないことをした、と思っても、絶対にそれを口にできない。立憲民主党の岡田氏に何度問われたとしても、今度は口が裂けても本音を口にはできないだろう。あのゼレンスキーにしても今回のことでトランプ批判を口にできないでいる。批判しているのはプーチンと習近平だけだがその言葉は形だけで物言いは柔らかく、内心では嬉しくて快哉を叫んでいるだろうことが感じられる。

 

 アメリカというのは、どんなに不出来の大統領がどんなにおかしな事をしても、それを修正していくシステムを持っている、というのが今までの伝説だった。ところが今の取り巻きはその修正をすることができない。トランプの矛先が自分に向いたら身の破滅だからだ。しかしトランプにこのような凶行を指嗾したのは誰なのだろうか。トランプに何かを吹き込んだものがいたのだろうと思う。一国を自分の支配下にすることで利益が得られると判断させた何者かがいる気がしている。グリーンランドにしてもしかり。ベネズエラの次はコロンビアかキューバかパナマか。

 

 アメリカ国民は相変わらずで、そもそもアメリカを攻撃しようとする国など今のところ存在しないから、トランプ賛成派も反対派も脳天気なものである。一国の国家に介入すればどうなるのか、ベトナムで、イランで、イラクで、アフガニスタンでアメリカが介入したことで、アメリカに恩義を感じた国があっただろうか。アメリカも莫大な損失を被った。ベネズエラにはアメリカに抵抗する戦力も国民の意志もないだろう。ベネズエラはマドゥーロがなき後、それを喜んでいる国民が多いらしいが、多分国は混乱し、四分五裂し、今のハバナのような無法地帯と化すような予感がする。そしてその無法地帯は今後拡大していくだろう。

日常モードに戻さなければ

 今日から仕事始めの人も多いようだ。世の中は正月モードから日常モードへ移っていく。テレビも正月モードの騒がしさがようやく終わってくれるのがありがたい。年寄りはやかましいのが苦手である。年金暮らしの、毎日が日曜日の身としては何も変わらないのだが、それでも気分は正月モードだったので、そろそろ日常モードに戻さなければならないと思う。

 

 ゴロゴロして掃除やお勉強をほとんどしていないので、頭は怠惰状態、部屋は散らかり放題、体は水ぶくれ状態になった。このままでも生きていけるのだが、だからこそこのままではそれが定常になるからあぶない。少しシェイプアップしなければ。今日からはしばし休酒しようと思う。録りためた放送大学の講義が溜まっているので、それをまた少しずつ受講してお勉強の再開である。その前に本を片付けて(あれだけきちんと整理したのに山がいくつもできている)部屋の掃除をしよう。まずそれが大仕事だ。

 

暮れから正月に読んだ本


 池波正太郎『剣客商売』
      『辻斬り』
      『陽炎の男』
      『天魔』
      『白い鬼』
      『新妻』
養老孟司『あなたの脳にはクセがある』
山本夏彦『つかぬことを言う』
山本夏彦・山本七平『夏彦・七平の十八番づくし』
         『意地悪は死なず』
『小林秀雄・江藤淳全対話』
ラフカディオ・ハーン『日本の面影Ⅱ』
池田雅彦『小泉八雲 日本美と霊性の発見者』
    『小泉八雲 今、日本人に伝えたいこと』
江國滋『落語手帖』
池田清彦『老いと死の流儀』

 

いささか読みくたびれた。

2026年1月 4日 (日)

見失われた落としどころ

 互いの言い分がぶつかり合う時、妥協点は互いが譲り合うどこかになる。互いの関係によってその譲り加減は大きく異なるが、片方の言い分だけが通るようなら禍根を残すことになる。つまり恨みが残る。

 

 WIN-WINでいきましょう、などと言うけれど、つまりそれは妥協点をうまく見つけられないような無理を通そうとするとあなたも損ですよ、ということの裏返しなのだと思う。少しでも譲ったら自分は損をすると言い続けたら、普通、交渉ごとは成立しない。日本には三方一両損、などという言葉がある。言い分を主張し合う二人では、たいてい物事はうまく収まらない。そのときに第三者である誰かが仲裁を買って出て、自分も含めてそれぞれが譲るように説得する。仲裁役は、自らが責任を引き受けるというリスクを負うことで互いが譲れる落としどころを提案し、争いを収めるのだ。大岡裁きなどにそのような話が残されている。これが大人の知恵というものであろう。

 

 ウクライナで、ベネズエラで、パレスチナで起こっていることは、そういうものでは全くない。ただ片側の100%の主張を押し通す、力の正義である。そこには落としどころは存在しない。こんなことをやっていたらどうなるのか、世界は繰り返し経験してきたはずなのに、そしてそれが世界にとってどれほどの災厄となったのか経験したはずなのに、それから学ばなかったらしい。世界がそうならないために作られた国連と言うシステムの、その中で絶対的な権力を持つ五大国の、ロシアが、そしてアメリカが、さらにそれに中国が、まさにその力の正義を平然と行使し、または加わろうとしている図は一体何なのだろう。

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暴挙

 トランプ大統領のアメリカがベネズエラに行ったことは、私には歴史的な暴挙にしかみえない。ベネズエラが国として問題があることは知られているけれど、だからといって、攻撃も受けていないのに、いきなり攻撃を仕掛けて他国の大統領を拉致しさるなど、してはならないことだ。世界はそういうことができてもしてはいけないと約束しあうことで、秩序がかろうじて保たれている。

 

 正月早々何をしでかしたのか。このことが世界に伝えたメッセージは、どのような波及を生むかと思うと恐ろしい。プーチンは正義の名の下にウクライナへの攻撃を激化させてゼレンスキーを拉致することを夢想するだろうし、習近平は台湾に侵攻して頼清徳を拉致または排除することを夢想するだろう。その夢想は実行可能である。

2026年1月 3日 (土)

力のある言葉

 暮れからずっと本が良く読めて、おかげで片付けや大掃除は中途半端に終わってしまったが、ずいぶん何冊も読むことができた。それも箱根駅伝などを見たりしていたらリズムが少し狂ってきて、ちょっと読むのにも飽きてきた。それよりも、どこにも出かけずに座ったままで朝から飲んだり食べたり居眠りしたりし続けたら、体重があっという間に三キロ以上増えてしまった。今日で一区切りにして、明日から飲み食いを控えめにして、少し散歩に出かけることにしようと思う。

 

 いま読んでいる内田樹の本に「その通り」、と思うことが書かれていた。

 

 ある文章が論理的であるか非論理的であるかを判定するのは推論の働きではない。論理的な文章は「気持ちがよい」が、非論理的な文章は「気持ちが悪い」から、わかるのである。
 それを判定するのは身体的な感覚である。
 それは幼いころから美しい音楽を浴びるように聴いてきた子どもが演奏の半音のずれを「不快な音」として聴き咎めてしまうのと同じである。
 論理性を身につけるためには、論理の運びが美しい文章を浴びるように読む以外に手立てはない。「力のある言葉」を繰り返し読み、暗誦し、筆写する。国語教育とは畢竟(ひっきょう)それだけのことである。

 

 「身体的な感覚」というのがいいではないか、まさにその通りだと思う。難しいことが書いてあっても論理的な文章なら読むことができる。読み続けることができる。そうして読み慣れていくと、そのときにわからなかったことがひとりでにわかるようになってくる。読書百遍意自ずから通ず、と言うのは本当だと心底思う。いまはよくわからないけれど読んでいるうちにわかるはずだ、わかったら自分に得るものがあるはずだ、と思える本をときどき読み、そして読み返している。そして読めば読むほど自分にとって当たりの本を見つけることができるようになるものだ。

 読書が趣味で本当によかったと思っている。

CM

 CMの中にはなかなかよくできたものがあって、だからすべてのCMを嫌うわけではないが、そういう悪くないCMは極めてまれであり、多くが番組そのものを侵食する、時間の無駄に感じられてしまう。嫌いなタレントが出るCMは、タレントが嫌いだからではあるが、たいていつまらないか、けたたましいだけのものだ。

 

 たまたま見たCMの中で、貴乃花が出る「ふるなび」のCMは嫌悪感さえ催す。「ふるなび」がふるさと納税のことだというのは承知しているが、この「ふるなび」は公的なものなのか営利企業なのかそれがわからない。私は年金生活者で、ふるなび納税によって何か利益を得られるような金額を納税していないから関係はないが、もし大きな納税をする立場であったとしてもふるさと納税をしようとは思わない。それはそれとして、あのCMは見ている人間を馬鹿にしているとしか思えない。私が冗談やしゃれがわからない人間だからそう思うのだろうか。あのCM作成者は、どこまでふざけたCMをしたらひんしゅくを買うのか試しているとしか思えない。

 

 しばしばおかしなものがはやることがある。ガングロやルーズソックスなど、誰が見てもおかしなものをはやらせた誰かがいる。はじめはおずおずと、やがて次々に皆がまねをする。それを見て舌を出している人間がいるのではないかとわたしは思っている。

 

 何度も書いているけれど、テレビのCMの氾濫はテレビ離れを加速し、多分大手企業が費用対効果のないことでどんどん撤退し、テレビ局はダンピングして二流三流四流の会社のCMをかき集め、番組を侵食していく。CMのおかげで民放はただで見ることができるけれど、ただほど高いものはない。何しろ時は金なりで、その時を食い潰すのであるから。若い人はリアルタイムで見ないでCMを飛ばしてみるだろう。私もそうだ。

 

 衰退しつつあるテレビ業界にとって、いまはテレビ局が多すぎる。「ふるなび」のCMのようなものを見せられるとその衰退ぶりを実感する。

2026年1月 2日 (金)

忙しい

 なかなかに忙しい。朝から箱根駅伝を見た。応援しているのはいつも早稲田大学と東洋大学で、東洋大学は弟の出た大学だから応援している。往路は久しぶりに早稲田が優勝するかと思ったのに、驚異のハイスピードの青山学院大学に最期に抜かれて残念だった。今年も見応えのあるおもしろい駅伝だった。明日も楽しみだ。

 

 それが終わってから、録画してあった『三屋清左衛門残日録』を見る。昨日放送した前後編で、これは以前見たものの再放送であるが大好きな物語なのでおもしろい。背景に描かれる風景も、庄内の最上川や月山、鳥海山を思わせるもので、私にとってはなじみの景色だ。藤沢周平の作品の中で好きなもののひとつであるし、主演の北大路欣也がイメージにピタリとはまっているのがいい。気がついたらもう夕方である。

0611234-014

 今日の分も録画してあるし、明日もあさっても放映される。明日はもちろん箱根駅伝の復路だからそれも見なければならない。なかなか忙しい。それにしてもドラマの中で酒を飲むシーンが何度もあって、見ていたら飲みたくなってしまう。さあ、これから一風呂浴びて、一杯飲むことにしよう。酒はたくさんある。

『小泉八雲 今、日本人に伝えたいこと』

 池田雅之『小泉八雲 今、日本人に伝えたいこと』という本を読了した。小泉八雲に興味を引かれたのは、もちろん朝ドラの『ばけばけ』がきっかけのひとつであるけれど、それ以上にNHKEテレの『100分de読む『日本の面影』』という番組を視聴したからである。そこでアマゾンで調べて、その『日本の面影』、さらに『日本の面影Ⅱ』(この本には小泉セツの『思い出の記』が収録されている)、『小泉八雲 日本美と霊性の発見者』(この三冊は角川ソフィア文庫)、そして今回読んだ『小泉八雲 今、日本人に伝えたいこと』(平凡社新書)の四冊を取り寄せた。めでたくすべて読了して、私のいささかお粗末な能力レベルとしては、おおむね小泉八雲について満足のいくところまで知ることができたと思っている。

 

 『ばけばけ』を楽しむための副読本としてなら、『日本の面影』の二冊を読めば十分であろう。『小泉八雲 日本美と霊性の発見者』はその『日本の面影』の解説と小泉八雲について記した本だ。小泉八雲そのものについて知りたいのであれば、今回読んだ『小泉八雲 今、日本人に伝えたいこと』がさらに詳しいが、著者の池田雅之が発表した論文や八雲に関する文章を集めたもので、評論文であるから、こういう文章に慣れていないと読みにくいものもいくつかある。

 

 今回読んだ本では、八雲がマルチ・アイデンティティの持ち主であるという指摘がされている。言っている意味も詳しく論じられているからわからないことはないが、アイデンティティがマルチである、と言うのは少し違和感を感じた。しかしその視点で見れば、彼の日本文化の受容の仕方が理解できないことはない。それよりも、クレオールについての言及が目新しく感じた。クレオールを説明しようとすると難しい。特に日本人には理解しにくいかもしれない。もともと中南米の混血の人(白人も黒人も含めて)を指したが、彼ら独特の国籍不明の独特な言語や、生み出した文化や文学、音楽などすべてを指していることもある。たまたま放送大学の『世界文学への招待』という講座でクレオール文学の講義を見たので、多少は理解できた。それに友人とキューバに行ったことがあり、そこで見たこと感じたこと知ったことも助けになっている。

Dsc_1317_20260102071001松江にて

 小泉八雲の生い立ち、遍歴、そして彼の性格がその作品にどう反映されているか、池田雅之の考察が詳しく書かれている。それ以上に、小泉八雲が西洋で、どう評価されてきたのか、今はどうなのか、また海外の日本研究者から小泉八雲がどう評価されているのかがかなり詳しく書かれている。八雲についてのこちらの視点が定まると、その評価している当の研究者の視点もみえた気がした。

2026年1月 1日 (木)

日向の猫

 昨晩は正月の予行演習で、正月用に買っておいたつまみをいくつかテーブルに並べて、ちびりちびりやり始めたらできあがってしまった。テレビはつけずにただ飲みながら雑誌などを眺めていた。何しろ紅白歌合戦なんて何十年も見ていないから、静かなものである。眠くなったので十時前には床に入った。おかげで朝の四時過ぎに起きてしまった。若水を汲んで、お茶を飲み、ミカンなどを食べて本を読み始めたが、そうだ、正月だから朝から飲んでいいのだ、と気がついた。御神酒として銚子に獺祭をいれ、一人で明けましておめでとうといいながら九谷焼の杯を上げた。そういえば、昨日は陸奥の八仙という酒を飲んだ。まだ残っている。まだまだ夜は明けていない。

 

 ハムだの伊達巻きだの黒豆だのかまぼこなどで一本空けて、気がついたら外が明るくなってきた。寒いけれどベランダへ出て元日の日の出を見た。

 

 雑煮を食べて本を読み始めたら、早く起きすぎたからウトウトする。食べたり飲んだり本を読んだりウトウトしたり、なんだか日向の猫みたいな私の正月である。友人から、そして息子夫婦から電話をもらった。いい正月である。

 

 さあ、サラダと鶏の唐揚げでも作ってまた飲もう。

明けましておめでとうございます

 明けましておめでとうございます。

 

 正月と言っても、ただ昨日の今日で何かが変わるわけでもありませんが、物事には適度に区切りがある方が良いようで、それを機に気持ちを新たにすることができます・・・などと言いながら、正月なので朝からお酒をいただいて幸せな気分になっております。こういうときは決まり文句が良いようです。

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 遅ればせながら、皆様、今年もよろしくお願いします。

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