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2026年2月

2026年2月28日 (土)

大根の花

 暦の上では明日からが春だが、少し前から暖かい日が続いていて、春はもうすでにやってきているようだ。 今日は晴天で、日差しにも春の暖かさがあるが風がつよかった。春というと花粉症で、私はスギ花粉よりもその少し後のヒノキの花粉に感作するようだ。それでも先日毛布の洗濯をして、その時にたぶん杉の花粉がついたのか、眼がかゆいし鼻水が出るようになった。なんだか眼の中がゴロゴロするのも花粉のせいだろうか。

 

 そんな風の中、三つほど鉢の土をかえして生えていた雑草を取り除き、久しぶりにカイワレの種を蒔いた。まだ種がだいぶ残っている。

 

 昨年秋に取り残したカイワレは、どんどん成長して葉が茂り立派な大根になった。いくつかは食べてしまったが、三本ほどそのまま残しておいた。数日前から茎が伸び始め、つぼみがつき始め、ついに花が咲き始めた。

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 一二ヶ月すると結果してサヤに入った種が取れる。今回蒔いたカイワレの種はそうして昨年の春に採ったものだ。今回もたくさん種が取れそうだから、カイワレが食べ続けられそうだ。

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見終わる

 『ビエナ・ブラッド 世紀末ウィーン事件簿』全22回を見終わった(くたびれた)。第三シーズンまでは各全六回、二回で一つの事件が解決するという進行だったが、第四シーズンは全四回で一つの事件が描かれる。このシーズンでは国際的な大陰謀事件により、主人公のひとりである精神科医が凶弾に倒れて意識不明、生死の境をさまようことになる。だからウィーン警察の警部がひとりで事件を追うのだが、彼はもし相棒の精神科医だったらどう考えるか、どう推理するかを想定し、その想定された自分の脳内の相棒と相談しながら捜査を進める。そしてついにはこの警部も殺人事件の濡れ衣を着せられて追われる立場になってしまう。

 

 時代背景が第一次世界大戦が迫るヨーロッパであり、その歴史的必然性とオーストリア国家の中枢に暗躍する巨悪との闘いが物語としてうまくシンクロしてたいへんおもしろかった。そして過去の事件も、その背景にはその巨悪が関与していたこともほのめかされる。そしてそれが荒唐無稽どころか現実に歴史の背景だったのではないかとすら思わせてしまう。蟷螂の斧ではあるが、しかし自らの生き方に対する矜持から立ち向かう主人公たちの姿に「男」を感じる。

 

 ベッドディテクティブというミステリーのジャンルがある。主人公が病気や怪我その他で現場に立つことができず、誰かを介してもたらされた情報だけで推理して事件を解決するというスタイルのミステリーである。今回は当人は意識不明状態であるが、相棒の脳内で推理の手助けをする。非常に巧妙なベッドディテクティブとも言えておもしろかった。

 

 夜、眠くなかったので『ミッションインポッシブル ファイナル・レコニング』という映画を見た。トム・クルーズ主演のシリーズの最新作だ。こちらは荒唐無稽ではあるがハイテンポで、長い映画だけれど飽きさせない。ただ展開が早すぎて細部がよく理解しきれないで進行していくから、ついて行くのが大変だった。しかも過去の事件が無理矢理関連させられている感がある。相変わらず主人公は強運と超人的体力を見せるが、それをそれらしく見せる、無茶な設定での演技をこなすトム・クルーズには感心する。AIと人間との闘いがテーマであり、そのAIをコントロールできると信じる愚かな人間が登場するのは最近のお決まりである。人並み優れているからこそ愚かである人間がこの世を滅ぼす役割を担う、というのは確かに真実であるのかもしれない。凡人は何も知らないうちにに滅びていくのだろう。

2026年2月27日 (金)

何をいったい見てきたのか

 六角精児の『呑み鉄本線日本旅』は、今回から特別に『呑み鉄本線世界旅』ということでタイの列車旅をしていた。この番組は好きだからほぼすべて録画をしておく。再放送も録画するから、二度も三度も見たりする。国内の旅なら、普段は愛車での旅をしているが、危ないと感じたら免許を返上するつもりだから、そのあとは列車旅かツアーの観光バスにでも乗るつもりだ。

 

 海外にはそこそこ行ったつもりだ。一人でも行ったし、友人とも行った。現役時代はあまり日数が取れないから、中国、台湾、韓国、東南アジアへ行くことになる。どこへ行っても食事が美味しい。普通に供される料理なら食べられなかったりまずかったりしたことはない。パクチーでも全く苦にならない。

 

 タイはバンコク周辺しか見ていないから、今回の呑み鉄本線ではその風景を楽しんでいる。そうして、バンコクのチャオプラヤ川のあたりを歩き回ったことなどを思い出していた。そうして、もっときちんと見てくれば良かったと心から思ったりした。また来るつもりもあったけれど、旅はやはり一期一会、もう一度はないのだと残念に思う。今はただ思い出だけ、あの楽しかった時間は夢のようだ。思えば人生そのものが夢のようだ。

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フィールドワーク

 放送大学の『「人新世」の文人類学』という全15回の講義を見終えて、スカスカのざる頭なりに思うところがいくつかあった。粗い目のざるにわずかに引っかかったことばのなかに、「フィールドワーク」と「オフグリッド」 があって、そのことを頭の中で反芻している。それはキーワードであって、そこからさまざまなことが関連してくる。

 

 文化人類学の重要な手法に「フィールドワーク」がある。少数民族とともに暮らして、その文化を体験として採集するものなどがよく知られているが、そういうものだけではなく、現代の日本の中でテーマを決めて、ある集団を社会学的に調査するのもフィールドワークである。そしてそのフィールドワークをまとめたもの、報告書がエスノグラフィーと呼ばれる。過去、博物学的にこんな変わった民族がいる、という上から目線の、つまり先進民族が未開民族を調べて大衆の好奇心を満たすためにするものだった面があったが、今世紀に入り、レヴィ・ストロースなどによって、そういう視点からのフィールドワークは文化人類学ではない、と激しく否定された。文化人類学者は探検家や旅人とは違うものでなければならないとされたのだ。

 

 これは西洋の視点から世界を見る歴史観、世界観を原点としているところから脱却をしなければ文化人類学は成立し得ないということで、 そのことの意味は大きい。コロンブスによってアメリカ大陸が発見された、などという世界観をいつまでも引きずっていては学問は成立しないと言うことである。そういう自らの価値観を引き剥がさないと文化人類学は成立しないのである。そしてそのことはあらゆるものに関わってくる。価値観は優劣判断を引き出す。その優劣判断を離れてものを見ることの困難さを自覚できるかどうか。そしてその困難さを自覚させることにこそ、文化人類学の存在意味があるのかもしれない。

 

 今回の講座では人類学に「人新世の」ということばが冠されている。そのことは人類の未来が関わっていることを示していて、「オフグリッド」というもう一つのことばがそのことを考えるときのキーワードとなる。それについては改めて書くつもりだ。

2026年2月26日 (木)

つい余分に買う

 片付けや整理に役にたちそうなものを物色しようと、久しぶりにスーパーの中にある百円ショップをのぞきに行ったら、売り場がずっと広くなり、店名もダイソーに変わっていた。置いてあるものも種類豊富でいろいろな価格帯があり、眺めていたら結構時間を食った。買うつもりでいたものとは別に、つい余分なものまで買ってしまった。こうして買った余分なものは、七割くらいの確率で使い勝手もよくて役にたつ。つまり二三割は使われずにしまい込まれるということだが、それでも惜しくないのがこういう店の商品だ。ここもセルフレジになっていた。迷ったので買わなかったものもいろいろあった。安いからと油断すると、ものが増えるだけである。しかしほんとうにいろいろと工夫されたものがあるのに感心する。

ミステリードラマを楽しむ

 ミステリーが大好きで、若いときから海外ミステリーを濫読してきた。日本のものもずいぶん読んだけれど、海外の方が中身の濃いものが多い(特に優れたものが選ばれて日本に紹介されるから当然なのだが)。テレビのミステリードラマを見るのも好きで、WOWOWを楽しめているのも、わたしの好みのイギリスや北欧のミステリードラマをたくさん放送してくれるからである。先日はアイスランドのレイキャビクが舞台の『白夜の連続殺人』(全六話)というドラマを楽しんだ。主人公の刑事の推理力や警察の捜査力は多少もどかしく感じられたが、多分これが現実なのだろうと思う。アイスランドのミステリーにはアーナルデュル・インドリダソンのシリーズものなど、優れたものがあるのだ。

 

 そのあとイギリスのクライムサスペンス、『EXPO 爆発物処理班』の第三シーズン全六話を一気に見た。このシリーズは題名通り、爆発物処理班の活躍を描いたものだが、その緊迫感、臨場感は絶品である。そしてわずかな手がかりから犯人を推理していく過程のテンポも悪くない。好きなシリーズである。

 

 いま夢中で観ているのは『Vienna Blood ウィーン世紀末事件簿』というウィーンが舞台のイギリスのミステリードラマだ。ウィーン警察の警部とそれに協力するイギリス生まれのユダヤ人研修医のコンビが難解な事件を次々に解決していく。今回は四回のシリーズ、全二十二話分が一挙に放映された。二話で一つの事件が解決する。一日四話ずつ観ていて、あと二三日で見終わるところだ。映像も役者も素晴らしいし、第一次世界大戦が間近いウィーンの時代背景が丁寧に描かれているし、フロイトが精神医学界で激しく非難批判されながら次第に受け入れられはじめた状況も見られるし、何よりユダヤ人がヨーロッパ社会の中でどういう立場であったかがリアルに描かれているのを観るのも興味深い。

 

 ただ、ヒロインが二人いて、第二シーズンで一人配役が変わったためにイメージがいささか狂ったのが残念。第三話ではもう登場しなくなったのは、多分不評だったのかと勘ぐってしまう。第一話のその女優は美人とは少し違うけれど、すごく魅力的だったのに残念だった。もう一つ、舞台は二十世紀初頭であり、「世紀末」ではない。Viennaはもちろんウィーンのこと。 

 

 もうすぐ大好きな北欧(スウェーデン)ミステリードラマシリーズ『凍てつく楽園』の新しいシリーズ全三話が放映される。楽しみだ。

2026年2月25日 (水)

寝心地は悪くない

 使い始めたベッドでの第一夜の寝心地は悪くなかった。来週は糖尿病健診と泌尿器科の定期検診が立て続けにあるので、毎回恒例の通り一週間前からの節食・休酒に入っている。酒を飲むと寝付きは良いが夜中に目が覚める。飲まないと寝付きがあまり良くないが、寝覚めは悪くない。多分いびきの度合いによるのであろう。だから今朝の寝覚めも悪くなかった。

 

 テレビのニュースは、ようやくニュース番組らしいニュースの構成に戻った。それにしてもトランプの朝令暮改、常軌を逸した言動にはなんだか胸がムカムカする。もちろんそう受け取るようなものばかりが選ばれて報じられている面があるのかもしれないという疑いはある。しかしまったくのウソ八百というはずはないので、それによって世界中が迷惑を被っているだろうことを思うと腹が立つ。しかもそれを誰も止められないという事態にも怒りを覚えるのだ。そして中国は日本に対しておかしな規制をさらに強化しようとしているらしい。それは日本人から見ればどう解釈しても恫喝と嫌がらせであり、理不尽にしか聞こえないものだ。

 

 私が感じるように、トランプや習近平が本当に間違っているのであれば、もしかしたら時間が彼らに制裁を加えることになるかもしれない。そうしていつになるかわからないそれを、ただ待つしかないことの無力感が胸をムカムカさせる。

 

 どうしようもないことで心を痛めても仕方がないのだが、世の中はもう少しまともかと思っていた。そのどうしようもない相手と交渉して、なんとか折り合いをつけなければならない立場の人たちの苦労に、いまは敬意を表することしかできない。そういう人をあろうことか、ただくさすことばかりしている人間を見ると、また腹が立つ。たまにはたいへんですね、ご苦労様、といったらどうかと思う。

やはり開腹したらしい

 退院してしばらく経ったから落ち着いただろうと思い、胆石手術をした弟に様子を聞いた。手術して数日で退院したからてっきり内視鏡での手術ですんだのかと思ったら、胆石が胆道を塞ぎ、胆嚢が化膿してよくない状態だということで、腹を開いて胆嚢を除去したそうだ。だからすぐ手術したのか。予後のチェックの診察が今週末にあって、今後の生活、食事について詳しくレクチャーされるそうだ。当分酒を酌み交わすのは無理だなあ。

 

 弟の声は心なしか元気がない。胆石の痛みはこれでなくなったけれど、脂肪を分解することができにくくなるから、脂っこいものは多分禁止されるだろう。私と同様、そういうものが好きな弟だからつらいと思う。早く回復してくれることを願っている。

2026年2月24日 (火)

ベッドにする

 寝室が片付いてスペースが確保できたので、いろいろ検討した末に選んだベッドを手配した。私は決めると行動は早いのだ。明日配達されるはずが、今日の午後着いた。少しだけ組み立てる部分があって、私はこういうことに不器用なので一時間あまりかかった。リクライニングもあり、起き上がるときの補助になる手すりもついている。折りたたむこともできるから、大掃除のときには片付けられる。

 

 本格的な多機能ベッドも考えたが、スペース的に無理だし、そういうものが必要なときは介護が必要なときということで、そのときは独り暮らしは無理だろうから不要だと判断した。寝心地に特に不満はない。私はかなりの大柄なので、シングルとしては一回り大きいものにした。

 

 とにかく重い。この歳にこういう重いものを立てたり横にしたり開いたり移動したりしていたら腰が痛くなってきた。それでもおおむね満足だ。本当の寝心地は明日の朝わかるが、いまさら不満があっても仕方がない。何よりこれでおおっぴらに万年床ができるということだけでも満足である。

息ができない

 今日は歯科の定期検診の予約日。昨年からだが、早朝八時から検診を受けられるようになったので、検診があってもその日が一日有効に使えてありがたい。歯医者まで五分足らずでいける。小学生が登校のためにグループごとに集まっている。朝でも暖かいし、皆元気だ。まだ春休みには間がある。

 

 知覚過敏はあるが、特に歯に具合の悪いところはない。かむ力が強いから歯がすり減っていて、神経に障るきわどいところまで来ているが、かろうじて保っているからなるべく大事にしていきましょう、と先生はいつもとおなじことをいう。

 

 そのあと久しぶりに歯石除去をして、歯の表面研磨、消毒、フッ素塗布とお決まりの手順で終わり。治療中に息ができなくて苦しくなった。鼻で息をすればいいのがわかっているのに今回は途中で息をつかせてもらった。なかなか馴れないものだ。支払いは後期高齢者だから申し訳ないほど安い。海外だったらこんなものではないらしい。日本の保険制度のありがたさを思う。それを維持するためには多少の負担はやむを得ない気もしている。

 

 かみ合わせの狂いから来る歯の割れは、それでも相変わらず少しずつ起きているし、口の中を噛むこともしばしばで、とにかく口中を清潔に保って口内炎や歯槽膿漏にならないように心がけている。口中の細菌が全身に悪影響を与えるという。糖尿病や泌尿器の慢性疾患もそれが原因ではないかと以前から実感していた。過去の口中のメンテナンスの不備の報いをいま受けているのだと思っている。 

2026年2月23日 (月)

祭りは終わった

 祭りは終わった。余韻を楽しむ程度なら好いが、祭りを引きずってしまうのはいかがかと思う。日常があってこその祭りの興奮であって、その区切りをわきまえなければならない。

 

 それにしてもスポーツのときはどうして誰も彼も大声になるのだろう。アナウンサーは絶叫するのがはやりになってしまって、音量を絞らないと聴いていてウルサすぎる。それが通常のニュースになると途端に聴き取りにくいほど低くなるのはどうしたことか。

 

 今度は日米野球に選抜高校野球、そしてプロ野球にメジャーリーグと、こう祭りばかりではリアルタイムでテレビを見る気にならない。テレビをつけずに本でも読もう。

片付けは玉突きする

 片付けは玉突きする。室内にあるさまざまなものは互いに関係していて、関連したものをひとまとめにしてから残すものと捨てるものを分別しなければならない。これがあればこれは要らないと判断できるし、あとで必要になったときにどこにあるのか探しやすい。関係は一つではなく、他の関係と関係しているものも多い。それも合わせて考えて分別して整理する。あちらにあり、こちらにあるものの互いの関係を考慮して、二度手間にならないようにしようと思うと部分が全体に及び、次第にこちらの処理能力を超えていき、疲労困憊する。というような哲学風なことを妄想しながら片付けをした。

 

 ものを動かすとほこりが舞う。空気清浄機を強にしても、ほこりがうっすらと積もっていく気がする。掃除機を何度もかける。次第に部屋の空きスペースが増えていくのを見るのは嬉しいものだ。

 

 それにしても、よくもまあこんなにものがたまったものだと我ながらあきれてしまう。自らの物欲によるものなのか、そういう欲望をかき立てる何かにそそのかされてのことなのか。『方丈記』のような必要最小限の生活にあこがれたりもするが、夢のまた夢だ。もし最初から必要最小限にして生きてきたら、どれほどの金銭的余裕ができただろうか。しかし考えてみればその余裕というのは、買わなければ残ったはずの金銭のことでしかなくて、金は使ってこそその役割を果たすのであるから、いま現実にささやかながら問題なく暮らせているのだから良しとする。さあ、出たゴミをまた捨てに行こう。

 

 これからはたまったものをできるだけ消費していく。録りためた映画や、山になっている本を少しずつ減らしていこう。芥川龍之介の『芋粥』のように、好きなものでもたくさんありすぎると食べる前から食傷してしまう。焦ると息が切れてしまう。一本ずつ、一冊ずつで良いのだ。

 

 寝室にしている部屋の、ベッドを置くスペースはなんとか確保した。そこから玉突きではみ出したものがリビングに積まれているが・・・。

2026年2月22日 (日)

高齢化

 自分の老化が人ごとではなくなってきたことへのぼやきや嘆きは今回は置いておいて、放送大学の文化人類学の講義で、高齢化、老人がテーマだったのでそれを少し考えてみた。人間は歳とともに老化する。体は機械と同様使い続ければ劣化して不具合を生じ、ついには壊れて使えなくなる。これは仕方がないことで、それでも金に飽かせて部品を交換したりして永遠に生きる方策を講じようとする富豪がいるという話も聴くが、今のところ成功しているという話は聴かない。補修の効かない脳の問題は当分解決の見込みはないから、あまり長生きするのも周りには迷惑だ。

 

 日本の社会的な大きな問題の一つは、高齢者比率の増加が世界に先行して高いことだ。介護する人員は増えないかまたは減っているのに介護の必要な老人が増え続ければ、介護の必要な老人すべてを介護することは不可能であることは自明のことである。むかしは家族が家庭内で介護することが一般的だったが、これからはそういう幸せな老人は少なくなるだろう。そもそも家族というものがほとんど崩壊している。独居老人の介護を誰が引き受けるのか。こぼれていく人が増えていくだろう。それを海外からの労働力に頼ろうという話もあるが、日本の国力低下とともにそれもかなわなくなる。AIによる機械的な介護などということがSFではなくて現実に必要になるが、そこまで行くとそうまでして長生きしたくない気がする。ここで究極的な問題が生ずる。長生きは果たして好いことなのかどうか、延命にも限度があるのではないか。健康とは何か、老化とは不健康とどう違うのか。

 

 世界の人口はそれでも増え続けていて、2050年には百億人近くになるという。既に人間は地球の復元力を超えて影響を与えるほどの存在になっている(その時代を「人新世」と読んでいる)。もちろん人類が滅びても地球はなくならない。さまざまなものが増えすぎたために滅びる、というのは別に珍しいことではない。ホモサピエンスという種の寿命は思いのほか短いのかもしれない。SDGsなどといっても、ただデッドエンドの先送りに過ぎない気もする。アメリカの愚かな大統領はその先送りを、あろうことか引き戻して早めようとしている。しかしその結果を彼が見ることはない。取り巻きは彼ほどバカではなさそうだが彼を怖れて黙っている。

 

 先行している日本の高齢化社会を他の先進国(まず韓国ついで中国・・・)も後追いしてくるだろう。そのときに日本がモデルになるかどうか、何か解決策を提示できるかどうか心許ない。どうも悲観的なことしか思い浮かばない。やっかいごとはすべて社会のせいにしてきたけれど、その社会が引き受けきれない事態になっても、まだ社会に頼ろうとするだろう。社会を恨むのだろう。

文箱

 文箱を二つ持っている。二つとももらったもので、一つは両親の米寿(父)と喜寿(母)の祝いのお返しにもらった。両親は11歳違いなので、米寿と喜寿が同じ歳なのである。希望を聞かれたので文箱をお願いした。そうしたらそれから少し後にひょんなことから文箱をもらうことがあったので二つあるのだ。

 

 それぞれに手紙その他を雑に放り込んでいたので、整理して一つにまとめ、空いた方の文箱に硯や筆などを入れて文箱本来の使い方をすることにした。習字は三日坊主にならない程度に気が向くと続けている。七十の手習いは、縦棒がそれなりに引けることがときにはあるという程度になった。筆は何本かあるが、いまはお粗末なものを使っている。だいぶ前に買った未使用の安い筆もあって、もう少しまともに書けるようになったらそれをおろすつもりだ。墨は使いかけが何本もある。息子や娘が学校で使ったものと、むかし自分が使った墨が二つ、一つは青墨でこれはおおむかし先生にもらったものだ。硯も小さなものが三つあって、一番状態の良さそうなものを使っている。機会があれば、そして習字が持続しそうなら、もうちょっと体裁のいいものが欲しいと思うが、無駄になりかねないので少し待つことにする。

2026年2月21日 (土)

片付け

 娘のところに久しぶりに行ってきた。息子夫婦が娘への土産を置いていったのでそれを届けに行った。ほかにももらい物がいくつかあったので少しお裾分けした。途中、いつも渋滞する場所があって、それがいつも以上に混んでいて、少しイライラする。こらえ性がますますなくなっている。原因は名鉄の踏切で、しかもその踏切の前後に主要な国道を二本横切ることになるのだが、その国道と踏切、さらに踏切とつぎ国道の間がそれぞれ五十メートル前後なので、各信号と踏切が強力な渋滞発生装置になっているのだ。こういう無駄にしか思えない時間がわたしは大嫌いである。

 

 帰宅して一息ついたが、横着者の私にしては珍しく、なんだかせっせと何かがしたくなってしまった。いまベッドにするかどうか迷っているが、ベッドを置くとすれば寝室にしている北側の部屋に置くことになる。スペース的に今のままでは部屋全体の使い勝手が悪くなる。そこでどこまで可能か、ものを片付けはじめた。以前は娘が使っていた部屋なので、娘のものもまだかなり残っている。もう十年ほどそのままだということは必要がないものばかりであろうと思ったが、娘に確認した。いるといっていたもの以外を思い切ってどんどんゴミ袋に詰め込んでいった。床に置いたままになっている本やノートその他や段ボールに詰め込んださまざまなものを分類し、不要と思うものをゴミ袋に詰め込んだ。たちまち袋が四ついっぱいになったところでエネルギー切れとなった。これでまだ半分くらいしか片付いていない。明日も片付けるエネルギーは持続するだろうか。それでもすべて片付ければ、なんとかベッドを置くことが可能な状態になりそうな気がする。

ラトビアのアニメ映画

 ラトビアという国がどこにあるのかよく知らなかった。エストニアとリトアニアに挟まれ、ロシアに接する国であることを世界地図を見て確認した。そのラトビアのギンツ・ジルバルディスという人のアニメ映画『AWAY』(2019年)と『FLOW』(2024年)の二本を見た。素晴らしい。『FLOW』はアカデミー賞の長編アニメ賞を受賞している。アカデミー賞にふさわしいと思う。二作とも台詞は一切ない。それなのに極めて説得的で、物語にどんどん引き込まれていく。

 

 場面場面のメインキャラクターの視線、そしてそれを眺めるものの視線が描き分けられ、ひとりでに感情移入していく。二次元アニメなのに極めて立体的な映像となっている。ある場面など、高所恐怖仕様の人なら見ていられないほどの高さの恐怖、そして深淵の深さが実感されてしまう。そして『FLOW』では何より水の描き方がリアルで、現実の水より水らしい。これは実際にこのアニメを見たらそう感じるはずだ。

 

 『FLOW』はメインが一匹の黒猫で、洪水の中を生き延びるなかで、カピバラや猿や犬や大きな鳥と次第に仲間となっていき、そこで遭遇するさまざまな危機的な出来事が描かれていく。言葉がなくても互いの気持ちが通じるものには通じるのだということを、これでもかというほど感じさせてくれる。その寓意があからさまでないことが好い。こういう映画に出会えるのがWOWOWの手柄だ。

2026年2月20日 (金)

人間を研究する

 放送大学の『進化心理学』全15講義を最後まで見た。講師の伝えたい内容の、ほんの断片しか受け取れなかったけれど、たいへんおもしろかった。あいだを置いて最初からもう一度、今度はノートをとりながら受講したいと思っている。心理学は科学だろうか、と私はかねがね懐疑的であった。進化論も多分に物語的な部分がある。それらをどう科学として確保するか、そのことについての講師の思いが最後の講義に強く表れていて感銘を受けた。

 

 心理学の論文には提唱する理論について、多くの実験的な結果が統計的に示されて、それが論拠とされる。厳密に科学的な手法を用いていることが評価されればそれは論文として専門誌などに掲載されて公表される。科学ではその実験方法や結果が再現性を持たなければならないとされる。もちろん人間が相手である場合、その再現性には幅があり、こういう場合に人はこういう行動をすることが全体として明らかであっても、それに反する行動をするものもある。そのバイアスの限度というものも統計的に定められていて、厳密なのである。

 

 ところがそのような実験を別の研究者が同様にきちんと再実験してみると、再現性がないことがあるのだという。それもかなりの割合で再現できなかったりするのだという。だから研究に意味がないというのではない。なぜ再現できないのかという新しい問題点も提示されたのであり、合わせてより再現性のある理論を考えていくしかないのである。そういう学問であることを講師(東大の大坪教授)はよく承知した上で、ストーリーにならないように自らを戒めながら研究しているのだとして講義を締めくくっていた。

 

 今新たに『「人新世」の文化人類学』という講義を見始めている。『進化心理学』と同様、その研究の切り口は違うけれど、つまり人間を研究する学問なのだ。第一回と二回を見た限りで、こちらもとてもおもしろい。「人新世」は「じんしんせい」と読む。こちらについてはもう少し理解した後に報告する。

再思案

 昨年体調不良になったとき、寝床から起き上がるのに苦労した。ベッドにしようかと思案していろいろネットで調べたりしたのだが、何しろ寝室にしている部屋も本だらけで、ベッドをゆったりと置くスペースがない。折りたたみで片付けられるベッドにしようかとも思ったが、買うならしっかりした一生ものを買うべきだと経験者の多くから言われた。そうこうしているうちに体調も少しずつ回復し、起き上がるのに相変わらず苦労しているが、起き上がり方に馴れてきてどうしてもベッドでなければ、という気持ちはなくなった。しかし先日の蔵開きに集まった友人たちも皆ベッドにしたらしく、「楽だぞ」と口々に言う。

 

 先々週、先週と、弟夫婦、そして息子夫婦が次々にやってきた。そうしてこたつに入ってテレビを一緒に見たりしていると、座椅子は私だけなので皆いかにも腰がつらそうだ。娘にはそろそろテーブルにしたら、といわれたし、こたつ大好きなわたしも、皆の様子を見ているとそろそろ椅子での生活にする潮時なのかと思ったりしている。生活のスタイル、暖房や部屋のレイアウトも含めて根本的に変える時期かもしれない。家具屋で実際のベッドやテーブルを見てこようか。

2026年2月19日 (木)

なくなる

 ブルーレイレコーダーの生産を主要メーカーが中止し始めた。ソフトをメディアに記録して残す、ということが次第にできなくなっていく。音楽もデジタル配信になって、CDも生産が減っているだろう。ハードディスクなどの中にデジタル記録として残せるからいいのだ、ということであろうが、どうもそういうものは不確かな気がしてしまう。私は時代遅れなのであろう。とはいえ、デジタル情報の情報量がますます巨大になって、そもそもメディアには収まりきれなくなっているという背景もあるのだろう。そういえばMDなどというメディアもあって、私は多くのレコードやカセットテープをMDにして残したのだが、いつの間にかMDプレーヤーもあまり見なくなってしまった。こういうものはハイレゾにはかなわないということなのだろう。

 

 ブルーレイレコーダーはなくなってもプレーヤーは残るから、たくさんのブルーレイディスクに残した映画などのコレクションはまだ見ることができる。私はWOWOWで気に入った映画を片端からコレクションにしていた時期があって、見切れないほど溜まっている。いまはさすがにほとんどブルーレイのディスクに保存しないで外付けのハードディスクに落としているし、録画するものも厳選するようにしている。見るよりも多く録画し続けるなどと言うバカなことはしなくなったが、消化は遅々として進まない。何しろ録画したものというのは時間の塊でもあるのだし、こちらの持ち時間は有限である。

 

 ある時期から繰り返し録画できるディスクに録画するようになって、見終わったらそこに新たなものを録画していたのだが、ディスクが劣化したのか手持ちのレコーダーが悪いのか知らないが、ディスクへの書き込み失敗が起こるようになり、いまはそれが頻発する。さいわい生ディスクへの書き込みは今のところ問題ない。だから最近は見おわってもう見ないディスクの大半はもったいない気もするが廃棄することにしている。

 

 なくならないうちにレコーダーを買っておくことにするか、それともブルーレイディスクへの書き込みそのものをやめてしまうか、思案している。

胆石の痛み

 胆石で入院して手術をした弟が退院したとLINEで知らせてきた。こんなに早く退院できたのは、開腹手術ではなくて内視鏡での胆石除去だったのかもしれない。詳しい話は来週改めて電話で聞くつもりだ。どちらにせよ無事にしかも簡単にすんで好かった。もらい物の医学事典を開いて胆石について調べてみた。

 

 胆石はあまり珍しい病気ではないようだ。そして女性は男性よりも倍くらい発症するという。現代は食生活が豊かになったために、患者が増えているらしい。昔からある病気で、「癪(しゃく)」とか「疝気(せんき)」の痛みというのはこの胆石が原因らしいことを初めて知った。「ひそみにならう」という故事があるが、美女が顔をしかめた姿すら美しいと言われたので、醜女(しこめ)がそのまねをしたら皆の物笑いになったという話である。ここで言う美女とは、西施のことである。広辞苑では西施が心の痛みで顔をしかめたと書かれているが、私はこの「疝気」の痛みだと思う。

2026年2月18日 (水)

二ヶ月前で二ヶ月後

 今日、入院中の妻の医療費補助のための手続きに行ってきた。二年に一回更新しなければならず、申請には病院の診断書が必要である。この申請は期限の切れる二ヶ月前から受け付ける。そして審査に県も関係するので、交付までに二ヶ月あまりを要する。この交付を受けていないと医療費が倍以上になるのでたいへんである。以前申請が遅れて二ヶ月ほどその金額で支払わざるを得なかった。もちろんあとで手続きすれば差額の還付はある。

 

 しかし二ヶ月前の申請で二ヶ月以上交付にかかれば当然病院の支払日にかかってしまい、綱渡りである。今回も前回も窓口を通してその不備を指摘して、改善を要請していた。今日その窓口で、「Oさん、申請は三ヶ月前から受け付けることになりました」と言われた。ちゃんとそれなりに改善されたのだ。やはり言うべきことを言うことも必要だし、窓口の人も問題を理解してくれていたのだ。ちょっと嬉しかった。

見苦しい

 もともとむかしから野田佳彦という政治家が嫌いだった。その理由は何度かこのブログに書いてきた。自分の置かれている立場、世の中の情勢についての認識がお粗末であることを何度も見せられてきたからだ。それは誰にでもあることではあるが、国の責任者や集団のリーダーとなるには致命的な欠陥であろう。対中国について、首相として日本をミスリードし、今度は自分の率いていた立憲民主党を壊滅的な状態に追い込んでしまった。そういう場合、人は沈黙を守るものだと思う。どうしてそうなったのか問われたら、自分が悪かったと答えるしかないのがリーダーの責任というもので、それが何やらいいわけがましい言葉を語るのはいかにも見苦しい。

 

 いま放送大学の『進化心理学』という講義を眺めているが、「利他行動」についての講義が詳細に考察されていて、このざる頭にとってわからないなりにとてもおもしろい。もう少しわかったらもっとおもしろいだろう。人類が発展したのは「協力行動」によるものであることは、考古学的、人類学的に既に明らかにされているが、その「協力行動」はまさに「利他行動」に他ならない。細かい説明ができるほどの把握はまだできていないが、それならトランプや習近平というのはその人類の進化の摂理に反するもので、いつか淘汰されるだろう。協力しないで自分だけの利をむさぼるものは、ついには仲間をすべて失い、あったはずの力も失って存続ができなくなるのがこの世界の冷徹な摂理なのである。わたしはそれを信じる。生きているうちにそのなれの果てを見てみたいと切に願っている。

2026年2月17日 (火)

基本から

 午前中は電気温水器のメンテナンスがあった。この頃湯の出が少し悪くなっているのでよく見るように言うと、フィルターにゴミが詰まっていたという。定期的にクリーニングして、その料金を払っているのになんたることか、いささか腹が立った。このいつも来るメンテナンスの人はぼやきが多くてうるさい。確かに仕事は大変だろうけれど、こっちの方がずっと年寄りなのにと思って同情する気にならない。そのメンテナンス料もいきなり前回よりも二割くらい値上がりしている。部品が値上がりしているそうだ。いま新しい温水器に替えると軽く五十万円を超えますよ、などという。知ったことか。

 

 午後、朝洗った硯で墨を磨り、練習用の半紙に字を書いて、筆の運びの基本をおさらいした。我ながらお粗末な字だ。特に縦棒がなかなか思うように書けない。十枚ほどの半紙を真っ黒にして、ついでに自分の手まで黒くしてお習字は終わり。けっこう集中していたからくたびれた。でもおもしろい。ときどき書いていつかは顔真卿や王羲之の臨書ができるくらいになるといいなあ。

硯を洗う

 いよいよWOWOWで『北方水滸伝』が始まった。北方謙三の『水滸伝』全19巻を実写化して連続ドラマにしたものだ。開始にあたって、主人公の宋江を演じた織田裕二と原作者の北方謙三の対談や、制作の経緯、撮影エピソード、ハイライトの断片などがまとめて放送された。それを見て期待が高まった。第一話は録画してあるけれど、ゆっくり見たいのでまだ未見である。

 

 『水滸伝』には思い入れがある。子ども向けの『水滸伝』を読んで大興奮し、登場人物の名前も何人か記憶してしまった。呼保義(及慈雨の)宋江、智多星呉用、花和尚魯智深、豹子頭林冲、青面獣楊志、黒旋風李逵などなど、何せ108人もの豪傑が出てきてすべてにこんな風なあだ名と姓名がある(紹介しようとすると変換が大変だ)。そのあと五年生の夏休みに吉川英治の『水滸伝』を街の図書館で見つけたので読んだ。子ども向けよりも少し豪快さが足らない気がしたが、一気に読み切った。あの滝沢馬琴の『里見八犬伝』も『水滸伝』を原案にしている(108人が8人になっているが)。何人かの『水滸伝』(柴田錬三郎版もあった)も読んできたが、北方謙三版は絶品である。いまは井波律子の『水滸伝』(全五巻)を読むつもりでそろえている。これは原典を翻訳したものである。原典はたくさんあって、駒田信二の翻訳も以前読んだことがある。違いを比べてみたいと思っている。

 

 ドラマでは宋江が『替天行道』の書を書くシーンが出てくるが、その書を実際に織田裕二が書いているという。ずいぶん書の練習をして、独自の書を書くまでに至ったという。それを見ていたら久しぶりに書を書きたくなった。久しぶりに道具を引っ張り出したら硯がいい加減に洗ったままで、そのまましまい込んでいたのですこし墨がこびりついている。その硯を洗おうと思う。墨汁でなく、墨をするのがいいのだ。道具は大昔の自分のものと、子どもたちが習字で使ったものなどをまとめてあったもので、そこから選んで使うつもりだ。

2026年2月16日 (月)

対偶

 命題の真偽を論証するときに、対偶の真偽をもって論証することができる。PならばQである、という命題が正しいか正しくないかは、QでないならばPではない、と言うことの真偽を論証すればよい。集合論や論理学の基本である。

 

「お客様は神様である」という命題の対偶は、「神様でなければお客様ではない」である。私は神様ではないという人がお客の中にひとりでもいれば、「神様でなければお客様ではない」という命題は偽である。つまり、「お客様は神様である」という命題は偽であることが論証される。

 

というのをEテレの高校講座の数学でみて笑ってしまった。まあ「お客様は神様である」というのがそもそも命題かどうかは異論があるかもしれない。

ささやかながら

 いままとめて録画してある放送大学の『進化心理学』という講座(全15講義)を半分ほど眺めたところだ。学んだというより眺めたというしかないレベルのお勉強である。放送大学の講義は基礎と専門があって、基礎講座はなんとか食らいつけるけれど、専門講座はさすがに内容が専門的で高度なのでかなり集中しても理解が難しいものが多い。それでもこの講座では自分の常識を覆えさせられることがしばしばあって、そのことが新鮮でおもしろい。曇った目が洗われることが少なくないのである。

 

 遺伝か環境か、という論争はむかしからあって、極端に片方だけを言い立てるものも多いのだが、そのことについても統計的に、そして論理的に考察されていく。遺伝子の生存戦略というものがどういうものか、いろいろ知ることが多い。そのときに繰り返し教えられるのは、~である、ということと、~すべきとか~でなければならない、という価値観を伴うものを混同してはならないということであった。人はつい倫理的なものの考え方をしてしまうが、それは科学的手法では誤りを導きやすい。それではトランプと同じか、と思う。トランプの場合は倫理ではなく損得だろうけれど。

 

 環境的影響とは、と考えながら思い出したことがあった。ある中堅企業の社長と知り合い、一緒に大阪まで同行したときにいろいろ教えられたのだが、「O君、君は高級な水商売の女性のなかにどれほど優れている女性がいるか知らないだろう。彼女たちは中学校しか出ていなかったりして学校での知識はないが、社会的知識が豊富で、世の中がどうなっているかかなり正確に把握していたりするよ」、「彼女たちがどうしてそれほど賢いかと言えば、日々素晴らしいお客の薫陶を受けて、影響を受けているからなのだ」、「人はやはり優れた人、学ぶべき人と付き合うようにしなければいけないね」という話が特に印象に残っている。「朱に交われば赤くなる」というが、それは悪い意味ばかりではなく、いい意味もあるのだと教えられた。

 

 それが環境というものと言えるかどうか知らないが、「氏より育ち」という言葉もそういうものかと思う。その言葉も突き詰めれば遺伝か環境かという話ではないか。こんな風にではあるが、具体的なことを連想しながらささやかではあるが理解に努めている。

2026年2月15日 (日)

疲れた

 息子夫婦は今日は伊勢神宮に参拝して、そのまま広島へ帰るという。元気な姿を見て安心した。向こうもそうだと思うが、実は私の方はあまり元気でもない。二人が去って、いままでになくどっと疲れが出て、何もする気が起こらない。

 

 気を遣うのは苦手であるし、孤独は平気だし、苦にならないと思っていても、やはり賑やかな時間のあとはいささか寂しい思いがする。本を読んでみてもあまり集中できないので、今日は一日ぼんやりとすごそうと思う。

2026年2月14日 (土)

過剰

 私があまりスポーツに興味がないからであろうが、テレビのオリンピックについての報道は過剰であるように思う。盛り上がるのはけっこうだが、知りたいニュースが隅に追いやられてなかなか知ることができない。特にNHKが過剰であって、民放の方がまだましに思える。以前海外に詳しい誰かが、開催国でもないのにオリンピックをこんなに騒ぎ立てるのは日本と韓国ぐらいだと言っていた覚えがある。だからテレビでは、録画したドラマや映画を見たりしている。

 

 映画はアニメを二本見た。一本は鳥山明の『SAND LAND』で、こちらは以前テレビで放映していた連続アニメを映画化したものだった。テレビ版は見ていてほぼ同じだが、おもしろいからつい最後まで見てしまった。もう一本は『メアリと魔女の花』というアニメで、スタジオジブリから分派したスタジオポノックの制作である。最後まで見て、そこそこおもしろく見ることができたけれど、正直のところ期待したほどではなかった。細部に微妙な齟齬を感じたし、物語世界の奥行きも浅い気がする。原作のあるアニメだが、原作は多分もう少しきちんとしていると思う。

 

 声優として、杉咲花、神木隆之介、天海祐希、満島ひかり、小日向文世、佐藤二朗、遠藤憲一、渡辺えり、大竹しのぶなどと超豪華メンバーが起用されていて、その声が誰かを当てる楽しみはあった。

 

 夕方、広島から息子夫婦がやってくる。いまその支度をしている。

ようやく一冊

 ヘミングウェイの短編集、『ヘミングウェイ全短編』(新潮文庫)全三巻の内の第一巻をようやく読み終えた。この巻には彼の初期の作品集『われらの時代』と『男だけの世界』が収められている。彼の文章は、文章とか言葉という膜を通していることを忘れさせて、直に描かれている世界を五感に伝えてくる。色、音、匂い、触感、味覚に響いてくる。例えば登場人物がある街角を眺めたとすると、すべてが映画の映像のようにみえているけれど、彼の意識に入るのはフォーカスされた一断片であるだろう。その断片がクリアに語られ、視点が動くのに合わせてみえるものが変わっていくという手法は意識そのものを描くから、あたかもその人物の見ているようにその世界に引きずり込まれていくのである。怖れ、怒り、痛み、そしてその息づかいが感じられる。やはりすごい作家だと思う。

 

 巻末に訳者である高見浩の長い解説がある。私はキューバに行ってヘミングウェイの旧宅を訪ねたこともあり、そしてコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』でヘミングウェイを読む気になったのだが、その読みは『アウトサイダー』を基点にした読み方であった。しかしこの高見浩の解説をもとにヘミングウェイの年譜、彼がこれらの小説を書いていた時期の私生活などを知ると、違う視点を与えられた気がした。それを加えて読み直して、あらためてみえなかったものを見つけたいと思うけれど、いまはすぐに読み返す気になれない。第二巻に進みたいと思う。ここには『キリマンジャロの雪』という作品が収められていて、これは昔読んだことのある作品であり、大ファンであるグレゴリー・ペック主演で映画化もされていて、もちろん見たことがあるのだ。そのときに感じた世界と、今回読み直して感じる世界がどれほど違うか、それを楽しみにしている。

 

 昨晩、弟の手術が無事に終わったと義妹から連絡があった。 

2026年2月13日 (金)

手術

 弟が我が家に来てから胆石の痛みで病院に行くことになり、蔵開きに参加できなくなったことは少し前のブログに書いたが、大雪の中、千葉へ帰ってからのかかりつけの病院での診察で、やはり手術した方が良いということになって、急遽今日手術するようになったと連絡があった。夕方には結果がわかるはずだ。無事を祈るばかりである。

 

 その連絡があったあと、妹に電話する。弟の話もあり、また妹の亭主も誤嚥性肺炎で緊急入院したことでもあり、その後の話を聞きたかったのだ。さいわい危機を脱して峠を越していて、思いのほか回復が早いとのこと。しばらくは入院を続けなければならないが、在宅介護にもどれる見込みが高いと言うから、本当に安心した。

気分転換

 特に意識しなくても、次々にこなせていた日々のものごとが、一つ一つを手順とともにメモしておかないと忘れがちになった。忘れるはずのないことを忘れたりする。特に普段とは違うことがあるとそういうことが起こる。忘れたことをひどく深刻に考えて落ち込む。

 

 なんとかメモしていれば問題なく暮らせているのだから、それで良しとしたいところだが、これからどうなるのかと思うとつい悲観的になってしまう。全く問題なさそうに暮らしている同年配を見ると、自分は少し早いのではないかと思ったりする。独り暮らしなので、人に対する配慮、気遣いができなくなっている。相手が感じていることに気づけない。あとで気がついても遅い。

 

 そういうことに心がとらわれるとますます心の活性が低下する気がする。心の活性が低下すると好奇心やものに興味を持つ心の働きも低下する。低下した意識は時間を空虚にして、その進みをさらにはやめてしまう。少し頭の回転方向を逆にしないといけないのではないか、などとおぼろげに感じている。少し気分転換を試みなければ、と思う。三日坊主でもいいではないか。もう少しジタバタしよう。

2026年2月12日 (木)

生き残るもの

 強いから生き残るのだろうか。生き残ったものは生き残ったということで結果的に強いものと言えるのではないか。それはつまり、生き延びたものは礼儀正しいものだったからではないか、と内田樹が書いていた。礼儀正しい振る舞いをするものは敵を作らない。敵が少なければ生き残る可能性が高くなる。そういうのである。同感である。

 

 人間はそもそも動物としては弱いものだったが、仲間を作り社会を構成し、集団で事に当たることで成長発展し、滅びることなく生き延びてきた。現代世界を見れば、長い間に磨きあげられてきたその礼儀正しい振る舞いが捨て去られて、下品な力の世界に堕落しつつある。人類は生き延びる力を失いつつあるということか。

 

 放送大学の『進化心理学』という講座を見始めた。こんな学問があるとは知らなかった。どういう学問か説明できるだけまだ理解していない。わかりやすそうでけっこう難しい。知識として知っていたつもりのことが、実は間違いだったということがいくつも取り上げられていく。そしてどうして間違いと言えるのかが丁寧に論理的に説明される。今のところ、その講師の語る理屈が本当に正しいのかどうか疑念を払いきれていない。それだけ自分の思い込みの頭へのこびりつきが強いということかもしれない。

錯覚?

 昔読んだ本を読み直していると、以前はみえなかったことがみえた気持ちがすることがある。自分の読みが深まったようで嬉しい。しかし、実は前回読んだときもそれなりに本から受け取るものがあったのかもしれないと思ったりする。忘れているだけかもしれない。

 

 その、忘れていることについて、ざる頭としてはそういうこともあると、いままでは気にしていなかったのだが、この頃は少し不安を感じだした。忘れすぎではないか、忘れるはずのないことまで忘れているのではないかと感じることがしばしばある(感じるだけではなくて、現に忘れものが多くなった)。読みが歳とともに深まったと思うのは錯覚なのではないか。

 

 さまざまなことにたいして行動が遅くなっている。しなければならないと頭でわかっているのに、いつまでも放置している。スイッチが入りにくいのである。傍から見たら、自分で思うよりひどくなっているのかもしれない。年相応なのだと気を取り直すけれど、じわじわと、そしてまだら状態に感度が低下している。興味を感じたものに向けてテンションを上げて動いてみるのだが、すぐ疲れてしまい持続しない。

 

 老化とはそういうものなのだろう。これではいけないと無理をしても、その無理が不安を増幅させてしまう。いまはそういう状態を受け入れて、少しペースを落として暮らすしかないようだ。興味を感じるものがまだ多少はあるだけでも良しとするか。どうも泣き言が増えてきたなあ。泣き言ではなくて、誰も聞きたくない年寄りの繰り言か。

2026年2月11日 (水)

断片

 いま読了した養老孟司の本、『読まない力』(PHP新書)を読みながらメモしたものをいくつか。

 

未来 未来は、若者や中年以下の人にとっては自分の将来のこととしてみえて、年寄りにとっては自分の将来はもうないから、自分の国や世界のこれからだと考えてしまう。

 

辛抱 世の中が便利になったことで、辛抱しなければならないことが激減した。辛抱しなければならないことが減ったから辛抱できなくなった。キレやすい人間が増えたり、自殺する子どもが増えた理由かもしれない。
便利になったから利口になるというわけにはいかない。

 

 読まない力というのは、安易に解釈しないということか。いまは何でもかんでも「どうしてそうなのか」の解釈をしてわかったつもりになりすぎる。世の中は複雑で、簡単に解釈できないことがあたりまえなのに、それに耐えられないから単純化したおかしな言説にすぐ飛びついてしまう。 

日常

 来客があると家の中が日常と違った状態になり、片付けるのに少し時間がかかるものだが、弟夫婦が帰った後は義妹のおかげで整然としていてわざわざ片付ける必要がない。たちまち日常に戻る。

 

 先日読んだヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』との宗教というわずかなつながりで、内田樹・釈徹宗『はじめたばかりの浄土真宗』(角川ソフィア文庫)という本を引っ張り出して読み直した。仏教に興味はあるが、浄土真宗にはそこまで思い入れはないから、深いところまで考えるに至れない。それよりも「宗教と倫理」というテーマについての二人の考え方には多少は思うところがあった。常識というものを手がかりにものを考えること、考えるしかないこと、そこから原理主義に陥らずにすむかどうかが分かれるという。なるほど確かにそうだ。

 

 夜、アニメの『ジョゼと虎と魚たち』を見る。原作は田辺聖子の短編小説だという。実写版や韓国映画もあるらしく、それぞれの色合いはまるで違うのだそうだ。このアニメ版は子どもが見ても楽しめるし感動もできるもので、見終わったあとも気持ちがいい。

 

 武装した中国公船が日本の領海侵犯を繰り返しているという。選挙のどさくさ紛れを狙うといういつもの下品なやり方だ。それを非難しても中国は日本が悪いからだ、と言い立てるだろう。そうしてその中国におもねるものもいる。そういうものが不愉快で、その不快の蓄積が今回の選挙に影響しているのも事実だろう。

2026年2月10日 (火)

生活者

 生きていれば誰でも生活している。赤ん坊も働いている人も寝たきりで介護を受けている人も、それぞれの人がそれぞれの生活を生活している。生活者一番、生活者優先の政治をすると中道が訴えかけた相手にあたる生活者とは、だから日本国民すべてであって、それに対する訴えであったことになる。中道はそのつもりだったのだと思うがしかし、その日本国民にはその訴えはあまり届かなかったらしい。しかし生活者一番と言うからには二番や三番があるはずで、その二番三番を中道はひたすら批判していた。中道は誰に向かって牙を向けていたつもりだったのだろう。たぶんその敵が多くの人には見えなかったのだろう。
 
 旧立憲民主党は、大敗というよりも壊滅的惨敗をした。中道の選挙結果の中身を見れば、公明党はかえって増えていて、逆に元立憲民主党の衆議院議員だけ見ればさらに目を覆わんばかりの状態である。選挙直前情報によれば中道の敗北が予想されていたとはいえ、この結果には誰もが驚いただろう。

 

 そもそもの民主党発足時に、分裂した社会党の左派を取り込んだ時点で多分こうなることが運命づけられていたのではないか。今回の中道として新党を立ち上げするとき、安保法制や原発容認を謳ったのは、過去それらに強硬に反対してきたその左派勢力の切り捨てをもくろんでいたためではないかと私は邪推していたのだが、なんと言うことか、その左派集団はこぞって反対することなく合流してきた。それならいままでの強硬な反対は一体何だったのか。それをじっと見ていた国民は多いのではないか。踏み絵を平気で踏む人間の信義を見たのではないか。そんな新党に生活を託す気にならなかったのだと思う。

すまなかった

 昨日昼過ぎに出発した弟から千葉に着いたという電話があったのは、夜の八時過ぎだった。静岡には立ち寄らず、しかも通行止めは解除するのではないかと期待した東名高速は通行止めのままで、仕方がないので御殿場から北上して中央高速経由で帰ったそうだ。最初から中央高速で行けば良かったのだが、私は静岡に立ち寄ると思い込んでいたし、中央高速は東名を迂回する車で渋滞するだろうと要らぬことを言ったので、結局長時間かかる帰宅になってしまった。ずいぶんくたびれたことだろう。

 普段独り暮らしなので私の段取りが悪く、弟夫婦はずいぶん居心地が悪かっただろうと思う。おまけに弟が胆石で体調を崩したことで二人ともずいぶん疲れたのではないか。十分それをいたわれなかったのは私の不手際である。本当にすまなかったと反省している。

 昨日には妹からも電話があった。自宅で介護中の義弟(妹の夫)が日曜日に誤嚥性肺炎で入院したという。にわかに発病し、救急車で病院に行くことになったそうだ。雪なのでたいへんだったようだ。一時は深刻な状態だったが、峠は越えたらしい。妹もずいぶん参っているようで心配だ。

 わたしはただ自分の生活ペースがしばらくの間変わったことによる疲れがちょっとあるだけで、今のところなんともない。週末には息子夫婦がやってくる。

 台所などの水回りその他、掃除を雑にしていたところがピカピカになっている。義妹が磨き立てていってくれたのだ。

2026年2月 9日 (月)

通行止め

 胆石の痛みで苦しんでいた弟は、今朝にはほぼ復調した。そもそも体調不良がなくても予定通りに昨日帰るのは無理だった。東名も新東名も大雪で通行止めだったからで、いま現在も通行止めが続いているようだ。開通しても当面は大渋滞だろうと思うし、中央高速は通れそうだが、そちらも迂回したトラックなどで渋滞していると思う。もう一泊してもらうことになりそうだ。

 いつの間にか弟の嫁さんが掃除や食事をせっせとしてくれていて、私は上げ膳据え膳状態である。申し訳ないことであるが、その方が遙かに手際よく片付いていく。

 弟の家の辺りもだいぶ雪が積もったらしいが、隣の人たちが駐車場まで除雪してくれていた、と様子を見に行った弟の娘が連絡してきた。だから心配ない。

 当地は朝は寒かったが太陽がでて、いまはぽかぽかと暖かい。

 弟がいて、本当は酒を酌み交わしたいが、さすがにそれは控えている(申し訳ないが、一人でちょっとだけ飲ましてもらっている)。

 追伸 このあと弟夫婦はやはり帰るということで、いま(12時過ぎ)出発した。静岡に義妹の実家があるので、そこに立ち寄って様子を見るという。渋滞がひどくなく、また通行止めが早く解除されることを願っている。

 

2026年2月 8日 (日)

急病と蔵開き

 昨朝、弟が腹痛で起き上がれなくなっていた。昨年末にやはりひどい腹痛で病院に行ったら胆石だと診断され、今回もその発作のようだった。直ぐに私のかかりつけの病院に行く。さいわい痛みは治まりつつあり、様子も落ち着いていた。一緒に蔵開きに行くことになっていたがそれどころではない。兄貴は蔵開きに行っても大丈夫というのでその言葉に甘えて家に戻り、支度をして友人たちとの待ち合わせに合流した。

 慌てていたので、せっかく準備していたのにいくつか忘れ物をした。それでも友人たちと絶品のうまい酒を飲み、歓談することが出来た。

 酩酊状態で家に帰ってその後のことを聞いたら、診察はさほど待たずに直ぐCTなどを撮り、やはり胆石であると診断され、痛み止めなどの薬を処方されたそうだ。弟はいささかぐったりとしていたけれど、朝よりはだいぶ楽になったようだった。今日千葉に帰ると言うが、途中、雪も降っているはずで危ないから、もう少し我が家でゆっくりするように言ったところである。

2026年2月 7日 (土)

彦根城の雪

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彦根城の立派な石垣。久しぶりに行ったら記憶より大きくて高かった。

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上から見下ろす。雪は融けかかっていたけれど日曜日にはまた降るかもしれない。

2026年2月 6日 (金)

琵琶湖へ行く

五日から弟夫婦が我が家に来ている。琵琶湖を見たいというので今朝は朝から長浜、彦根、そして大津へ行った。
長浜では長浜城、彦根では彦根城、大津では園城寺(三井寺)を見た。

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長浜城。ずいぶん久しぶりに来た。あいにくの曇り空であり、天守の最上階から見た琵琶湖は水平線も定かではなかった。

個別の報告は後日。

明日は弟と二人で友人たちと落ち合い、蔵開きに行く。その前に昨晩も今夜も結構酒を飲んでしまった。その接待に忙しくてブログを書く暇がない。結局洗い物などの片付けはほとんど義妹(弟の嫁さん)に手伝ってもらった。

2026年2月 5日 (木)

『シッダールタ』

 ヘッセの『シッダールタ』を読んだ。大昔、高校生くらいの時と、三十前にこの本を読んだことがあるが、内容についてはおぼろげな記憶しかない。そのときにどんなことを考えたのか。釈迦の本名はゴータマ・シッダールタという。この作品の中では、ゴータマという聖人と、シッダールタという魂の遍歴をして悟りを開いていく人物が別の人格として描かれていく。ヘッセは長年にわたって深く仏典を読み込み、この『シッダールタ』という作品を書くのに三年の月日を費やしたという。

 

 この本を読んだから仏教に詳しくなるというわけにはいかないし、そういう本でもないが、悟るということ、ある境地に達するためには、実際の人生をさまざまに生きなければわからないことがあるということについては共感する。最初からひたすら清浄に生きて、愛欲や金銭欲にまみれて生きるということがどういうことかを知らずにいては、人間そのものの絶望の深淵を識ることはできない、という考え方は理解できないことはない。

 

 しかし、私はそういう体験をしなくても釈迦はすべてを見通す存在であったと思う。実際にさまざまな生き方を体験しなくても、体験した人以上にそれぞれの人生を理解していたのだと思う。悟るということはそういうことだと思うのだが、そう思えば、ゴータマであるためにこそシッダールタはさまざまな生を生きて見せたのであり、シッダールタはゴータマ本人の幻影であったのかもしれない。そもそも悟りは言葉で語ることができないものである。だからヘッセは、それほど長くないこの物語を美しい詩のように書き綴り、三年もかけて書き尽くせなかったのではないかと思う。

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 なんとなく、やはり西洋人の見る仏教だな、という感じを受けたけれど、それは私にそうであろうという先入観があるからかもしれない。だからこそいまの日本人にはわかりやすいところもあるか。

日本を守る

 今回の選挙で「日本を守る」と主張している党がいくつかある。確かに世界は今までになくきな臭い。日本が攻撃される恐れが妄想とばかり言えなくなっていることを皆感じ始めているから「日本を守る」というスローガンが有効なのであろう。

 

 ところで一体どこの国が日本を攻めてくるだろうか。日本を侵略して占領しようとするだろうか。中国、ロシア、北朝鮮がたちまち思い浮かぶ。しかし北朝鮮については攻撃してくるかもしれないが、日本へ侵攻してくることはいまの戦力では考えにくい。盛んに示威行為をしているのは、ただ自分が攻撃されることを恐れてのことであろう。妄想が破裂したとしても、まず韓国からであろうし、その瞬間に金政権は自滅するだろう。日本としては北朝鮮をおびえさせて暴発しないように注意すればいいのではないか。

 

 ロシアはいかにもあぶない。もともと膨張志向の国家である。しかしいまウクライナで手一杯だし、ウクライナはロシアの勢力圏であり、もともとは同じ国だったというプーチンなりの言い分がある。今のところ日本に対してその考えを適用するとも思えない。北方領土を取り返しに日本が動いたりしなければ向こうから攻めてくることはないのではないか。

 

 そういう意味では中国は恐ろしい。南シナ海の占拠の仕方を見ていると、自分勝手で国際法など無視する国だ。もし台湾に武力侵攻し、占領したとするなら、次に沖縄へ手を伸ばすことを躊躇するかどうかわからない。すでに沖縄はもともと中国の支配下の琉球という国だった、と公言している国である。そこで止まるかもしれないが、沖縄を日本が守ろうとすればそれを口実にさらに戦線を拡大しかねない。そのことは誰もが薄々感じているのではないか。

 

 そしてさらにもう一国、日本を侵略占領する恐れのある国があることを忘れてはいけない。アメリカである。すでに日本にはアメリカ軍が駐留している。占領しようと思えば簡単に占領できるし、日本がアメリカと本当に戦うかと言えば、まず戦わずしてお手上げであろう。大量の艦艇を日本周辺に展開し、参ったか、と言えばそれで終わりである。どうしてアメリカが日本を占領するのか。アメリカにとっては日本のさまざまな技術力や人的資産が魅力的であるだろうし、大義名分としては、中国の攻勢に対して日本はあまりに頼りない、アメリカに組み込めば、アメリカとして中国と対峙できるという理屈が思いつく。

 

 そういうことを本気で考えかねないのがトランプだということくらいは想像できないといけない。カナダやグリーンランドの話を人ごとだと思ってはいけないのである。

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 さて、「日本を守る」のはどこから守るのかなあ。

2026年2月 4日 (水)

OB会報

 会社のOBで作る会があり、親睦のさまざまなイベントがあり、年に何度か定期的に会報も発行している。年に一度みんなが集まる会があるのだが、本社のある大阪で行われるのでいつも失礼している。今回送られてきた会報には、近況を書き込む欄のあるはがきが同封されていたので一言書き添えて返送した。次の会報にはそれが掲載される。会員それぞれの消息を知ることができてありがたい。

 

 こういうことを引き受けて、会を継続してくれる人がいることは本当にありがたいことである。記事投稿の要請があったので、久しぶりに旅の話でも投稿しようかと思案している。

『AIの壁』

 養老孟司『AIの壁』(PHP新書)を読む。この本は四人の智者と養老孟司との対談集。テーマは題名通り、AIである。養老孟司は未来に対して私よりも楽観的である。私にしても悲観的に未来を見ているものの、どうせ自分が生きているあいだくらいは大丈夫、と高をくくっているところがないではない。その先のことはあの世からの高みの見物だから、どうなっても知ったことではないのである。

 

 AIがとことん進化して人間のように意識を持つようになるのかどうか。そのとき、意識を持つということはどういうことなのか、そのことを突き詰めて考えるざるを得ない。どうして人間は意識を持っているのか、そもそも意識とは一体何なのか。

 

 そんなこととは別に、新井紀子という情報科学の専門家で教育に関連するAIの研究をしている女性との会話の中で、おもしろい部分があった。

 

養老 人生って想定外のことが起きるんですよ。その常識がなくなってしまって、何でも想定しなきゃいけない、というのが圧力になってしまっていますね。子どもの育て方がそうです。わからないことがあっちゃいけない。
新井 まさにおっしゃるとおりで、拙著『AIvs.教科書が読めない子どもたち』に対して、「子どもたちが文章が読めないことはわかった。で、じゃあ、どうしたらいいのか書いていない」という批判がものすごく多いんですよ。それがショックでした。研究者として誠実にファクトを調査して報告したのだから、それを受け止めて各自、考えたり試行錯誤したりすればいいと思うんです。なのに、問題提起するなら処方箋をセットで寄こせ、と平然と言う。何にでも答えがあって誰かが教えてくれると思っている人があまりに多くて驚きました。
(中略)
養老 それが今の人に一番欠けていることですね。答えが書いていない、と不満を言うのはそういうことですね。
新井 「バカの壁」ってそういうことだと思うんです。「どうしたらいいか書いていない」と批判するのは、教えてもらわなかったら自分は何もできませんと告白しているようなものなのに、そのことに気がついていないんです。
養老 それ、僕もよく聞かれますよ。
新井 「バカの壁、どうやって乗り越えればいいんですか?」

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自分で悩み、考えることはおもしろいのに・・・。今はそれをAIに聞くのであるか。

2026年2月 3日 (火)

突っ張り棒をセットする

 大小いくつもの本箱があり、寝ているあいだに大きな地震があってその本箱が倒れてきたら、全集などのかなりの重量の本も多いので本と本箱の下敷きになることが必至である。天井と本箱の間に突っ張り棒をセットして、その危険を回避しなければとかねがね考えていて、四組ほどを取り寄せた。一組で本箱の上部左右に取り付ける。人間の上に倒れてくる可能性が高くてしかも大型の本箱が四本あるのだ。

 

 一月以上前に取り寄せたのに取り付けずに飾ってあった。今週弟夫婦が来るので、それに間に合わせようと、今日ようやく取り付けた。私は人一倍不器用で、こういうものを組み立てたり作業するのが苦手なのだが、思ったよりも簡単に取り付けることができた。問題は踏み台である。高いところでの作業になるからしっかりした踏み台が必須なのだ。以前、椅子の上で高所の作業をしていて転げ落ちたことがある。そのあと場所塞ぎにはなるが、しっかりとした踏み段つきの踏み台を購入してあるからそれも心配ない。それでも作業しながら自分の平衡感覚が怪しくなっていることを実感する。

 

 かなりしっかりと固定はされたが、本当に大きな地震にどこまで耐えられるかは心許ない。何もしないよりはいいだろうと思う。

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このほかに北側の部屋に大小の本箱が五本ほどあるが、そのうちのガラス引き戸式の大型の本箱が特に危険なので、それだけ突っ張り棒を取り付けた。

『こんな日本でよかったね』

 内田樹『こんな日本で良かったね』(文春文庫)を再読した。副題は『構造主義的日本論』であり、内容は内田樹の2000年代の頃のブログを編集改筆したものである。この時期の彼のブログはたいてい読んでいたけれどほとんど忘れている。おかげでブログで読み、この本を買ったときに読み、今回読んでいつも新たな出会いになっている。記憶力がお粗末なのはこういう点でありがたい。無限に読めてしまう。

 

 構造主義などと言うと大げさのようだが、現代フランス哲学専門の著者が「ある種の知的な『構え』のことです」とくだけた言い方で説明している。「どういう『構え』か、一言で言うと、『自分の判断の客観性を過大評価しない』という態度です」、つまり「自分の目にはいつもウロコが入っていることをいつも勘定に入れて、『自分の目に見えているもの』について語るということです」・・・なるほど。

 

 誰もが自分の目の中のウロコを通して世界を見て、世界を認識している。そのウロコは剥がすことができない。できるのは自分がウロコを通してみているらしい、ということを他人のウロコを通しての認識から表明された言説と突き合わせ、自分とそれとの違いはどうして生ずるのか、と考えるところから察知することだけである。まことにそうなのである。自分と他人は違うのである。そのことに本当に気がつくのはまことに難しい。私も世の中の真実のほんの一端を気がついたのは、私は私であり、他人とは違うということからだった。

 

 無限に読めるから、処分するのは惜しい本だがきりがないので退場してもらうことにする。

2026年2月 2日 (月)

スマホ鏡

 週末に毎年恒例の新酒会がある。名古屋に移り住んでから、よほどよんどころない事情がない限り必ず、この蔵開き行事には毎年出かけているから、おおよそ四十回は参加していることになる。昔は酒造組合が主催し、組合の指示する蔵に出かけていたからいつも違う蔵を巡ることになった。その組合主催もなくなって、いまは各蔵が独自にやっていて、この二十年は毎年同じ蔵に友人と連れだって参加する。現役中は仕事関係の人も声を掛け合って集まったから、結構な大人数になったものだ。今は親しい友人だけで名古屋駅に集合し、デパ地下でつまみを見繕ってから名鉄電車で酒蔵に向かう。

 

 大阪や京都から参加する友もいる。何年か前から弟も参加するようになり、そういうことでは弟は千葉からだから一番遠方からの参加である。参加するために今週弟夫婦がやってきて数日滞在する。だからここ二三日は散らかった部屋の片付けをしなければならない。その前に先延ばしにしている散髪に出かけることにした。寒いけれども久しぶりに丸刈りにしてさっぱりした。格安の床屋は隣駅の先にあり、ついでだからその駅から一昨日行きそびれた鶴舞の古本屋に足を伸ばした。控えめに二冊だけ購入して帰路についた。

 

 電車の中で、スマホを手鏡みたいにして髪を直している若い女性がいるのを見た。スマホに手鏡機能があるのかと一瞬思ったが、聞いたことがない。自撮り機能で自分の顔を見ているのかもしれない。自撮りの映像は鏡の左右反転の像と違って正像であろう。そうするといつも見慣れた鏡に映る自分の顔と違うはずで、それでも鏡の役目をするのだろうか。鏡機能のあるスマホ、というのも面白い気がした。

でたらめ

 NHKのドキュメント、『真実を巡る攻防 アメリカファクトチェックの最前線』を見て、世も末だなと思った。自分は正しいのだから相手は悪であり、悪なのであるからどんな攻撃をしても許されると考える輩が横行すれば、この世は融和も妥協もあり得ない、分断だらけの世界になってしまう。間違っているのは自分かもしれない、と考えることができることこそが知的振る舞いであると思うのだが、そうでないことの方が利得が得られるのがいまの現実らしい。

 

 根拠がない、疑わしいことを事実のように言い立てるのさえ恥ずべきことなのに、明らかに間違っていること、でたらめなことを言い立てて平気であるのは、いかなる理由があれ許されることではない。それがまかり通るとしたら、その社会はおかしい。アメリカにだってまともな人は数多くいるだろうに、それが力を持ち得ていないのは残念なことだ。アメリカは全体として明らかにおかしな方向に突き進んでいるようだ。日本にもその影響が及んでいて、アメリカの後塵を拝しつつあるような危惧を感じる。でたらめを安易に信じる妄者たちの標的にされたら終わり、というのは恐ろしいことだ。

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2026年2月 1日 (日)

『敗れざる者』

 『ヘミングウェイ全短編』(新潮文庫・全三冊)の第一巻には、初期作品集『われらの時代』と、次いで出版された作品集『男だけの世界』がおさめられている。先日『われらの時代』を読了し、『男だけの世界』を読み始めた。冒頭が『敗れざる者』という中編小説である。盛りを過ぎて親しい者からは引退を勧められている闘牛士が、自分のプライドをかけて猛牛の前に立つ。彼は大けがから立ち直ったばかりである。読んでいるうちに、自分が主人公そのものになってしまうほど臨場感に溢れている。やはりヘミングウェイはすごいと思う。獣の臭い、砂ぼこり、観衆の喚声、猛牛の激しい鼻息、喧噪が一瞬途絶え、時間が急にゆっくりと流れたりする様子が五感を通してリアルに迫ってくるようである。

 

 コリン・ウイルソンが『アウトサイダー』の中で、「ヘミングウェイの功績は、文学の世界に肉体感覚を復活させたことである・・・」と記した言葉を実感した。そこに栄光があるか喪失があるか。すべてのことを捨てた一瞬に輝くなにかを見せられた気持ちがした。

 

 モーリー・ロバートソンの訃報を聞いた。つい最近テレビの番組で元気な姿を見たのに信じられない。ユーモアを含んで感情的にならずに、しかし自分の主張をきちんと話す彼の語り口に好感を持っていたから残念だ。

お茶を挽く

 お茶を挽くと言えば、手元の国語辞典によれば茶の葉を粉にして抹茶を作る、転じて芸妓・娼妓が客が取れないでいることとある。昔、遊里で手があいていた女に茶を挽かせたからだという。

 

 もともと好きであるし、持病のために常に水分を摂取するように医者に言われているのでお茶をよく飲む。その茶殻がなんとなくもったいない気がしていた。茶葉の料理などというものもいろいろあるようだ。それならすべて摂取することになる。普通の茶葉を粉にする機械を電気器具の量販店で見たら、思いのほか高いので驚いた。ふと思い立ってネットで調べたら、ハンドル手回し式の小さなお茶挽き機というのが安価で売られている。つい購入してしまった。

 

 簡単なものだが分解して洗えるというのが嬉しい。粗く挽くことも細かくすることもネジで調整できる。試しに飲んでみると、あたりまえだけれど粉っぽい。お茶をすべて飲むという喜びはあるが、感激するほどうまいと言うことはない。安い茶葉だからだろう。茶葉の量と煎れる温度をいろいろ加減して試している。

 

 いま私はお茶を挽いている。

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