一を聞いて・・・
一を聞いて十を知る、という賢い人がいる。知るどころではなく、お釈迦様のように「識る」人もいて、それくらいでないと悟ることはできないのだろう。弘法大師なんかもそういう人だったのだろうと思う。一を聞いて一を知ることができるならば、かなり賢い人と言えるだろう。こちらは十を聞いて一を知ることができればありがたい、というほどのざる頭だから、一を聞いて一を知る人に追いつくには十倍以上聞かなければならないし、一を聞いて十を知る人なら百倍で、もう到底追いつくことは不可能だ。おまけによく知る人はたいていよく学ぶ人でもある。
昨年あたりから、Eテレの高校講座やBSの放送大学の中の基礎講座などを視聴して、にわか勉強している。リタイアしてすぐ(十五年前)にはじめていれば、もう少し何かが身についたかもしれないといまさらの後悔をしている。それでも、目の粗いざる頭でも学べばたまには何かが引っかかってくれて、ボケの進行を多少は遅らせていると信じたい。
世の中にはさまざまな学問があるものだと感心し、その広がりと深さに人間の知的探究心の積み重ねをはるかに見上げる思いがする。録画しておいて、一度見て興味を感じたものはディスクに保存してコレクションにしている。たいてい一度見ただけでは内容の一部しか理解できないから、さらにもう一度見てもう少し知ることができるのではないかと思えたものが「興味を感じた」ものということだ。歯が立たないものは諦める。
読書も、映画やドラマ鑑賞をする気にもならないときに、このお勉強が案外おもしろく感じられる。数学の基礎など、そういえばこんなことを教えられたなあと学生時代のことを思い出すが、情けないことにほとんど内容を忘れている。そして気がつくとうつらうつらしていて、まさに講義中の居眠りまで再現している自分を眺めて笑うしかない。
よく知る人に追いつくことは無理だととっくに諦めている。そういう人と比較するのももういいだろう。昨日の自分と今日の自分、そして明日の自分と、変わっていく自分に何ほどか意味を持たせたいと思うばかりである。それに、いまはどんどん何かが自分から漏れ出して忘却に向かいつつある、そういう年齢でもある。蟷螂の斧でそれにいささかの抵抗をしたいではないか。
そうして、こんなことをブログに書くことで、自分をそうでありたい自分、に追い込む気持ちもある。
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