言論統制
昨晩はいい調子で飲み食いしていたら白ワインを一本空けてしまい、九時過ぎに寝てしまった。そうしたら夜中に目が覚めて眠れなくなった。ついベッドの横の本棚から昨年二月に亡くなった曾野綾子の『私日記 7 飛んで行く時間は幸福の印』という本を手に取り読み始めた。曾野綾子もある意味で戦う人だった。戦う人だがその言葉にはちゃんと品位がある。その本から引用する。
少し予想していたことだが、またしても朝日新聞の出版局から、連載の言葉遣いを変更せよとのこと。作品の中で、主人公のユダヤ人が「私はびっこを引いていた」と言う。そのびっこという一言を直せ、というのである。私はここ三年、自分の足のことを「まだびっこを引いておりますが・・・おかげさまで、ずいぶん歩けるようになりました」と言って来た。他人を「びっこ」と言って嘲(あざけ)ったことは一度もない。担当者とは仲がいいので申しわけないが、間違いでない表現の訂正はお断りすることにする。つまり連載はなかったことにさせてもらうことにした。一つ譲れば、人道主義的姿勢に左右されて、手がつけられなくなる。どこの雑誌社でも、最近はこんなばかな表現の規制をしているところはほとんどなくなった。新聞でも著しく減った。人道とは言葉遣いではなく、行為で示すものだからだ。正直なところ、連載が中止になった途端、さっぱりした気分になったのは、どうしたことだろう。
続けて
この日記で、数日前にも、いまに残るこの言論の統制について書いたばかりだった。私は昔から一つのことだけはわかっているような気がしていた。文学は、決して人道的な話だけを書くわけではない。当然のことだが、人生の悪事も書く役目を担っている。それは、悪という闇を書かねば、善という光も表せないからだ。印象派の絵画と同じである。その場合、差別語を使わないで悪を書くことはできないから、私はこの小さな自由を守る。もちろん表現の責任は筆者にあると言ってください、と私は言うのだが、それでもだめなのである。読者だという声に脅されれば、力におびえて表現を変えるのが新聞社なのだ。
多くの、言葉に、そして表現にこだわる執筆者がこの統制に苦しめられてきた。曾野綾子のように訂正を拒否して発表の場を失った者も数多い。矜持を採るか迎合を採るか、悩ましいところだろう。しかし失った矜持を取り戻すのは困難だ。自らを否定することでもあるのだから。戦前や戦時中の言論統制を激しく非難し、それに従わされた、と言い訳する新聞社が自らの統制を正当化する。曾野綾子の言うように、常にただ力におびえているだけなのだ。こんなことを言うと、では差別用語を容認するのか、と批判する人もいるだろうが、時と場合をわきまえた節度のある使い方、どうしても必要な場合の使い方まで統制するな、ということで、その案配こそに知性が必要だと思う。おかしければ批判すればいい。最初からすべて規制して、事なかれにしようとする姿勢が問題だと言っているのだ。
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