ダイキリというのはホワイトラムをベースにしてライムジュースと砂糖を加えた甘いカクテルである。キューバにはパパ・ダイキリというカクテルがある。パパとはキューバではヘミングウェイのこと。つまりパパ・ダイキリはヘミングウェイ特注のダイキリで、シャーベット状の氷をいれたカクテルはとびきり冷えていて、普通のダイキリよりも格段に甘い。これがうまいのである。どんどん飲めて、酔いはあとからどーんとやってくる。

ヘミングウェイが行きつけだったフロリディータ。なかは観光客で混んでいる。
十年ほど前に、アメリカがオバマ大統領時代、一時的にアメリカとキューバが融和して経済の締め付けが緩んだことがあり、いつものF君とYさんとの三人でキューバ旅行を楽しんだ。カナダがキューバとは友好関係にあり、飛行機はカナダのパンクーバー経由でキューバのハバナへ行くという長旅であった。連日のようにホテルでこのパパ・ダイキリを飲んだ。そのときにいまはヘミングウェイの博物館になっている旧邸宅を訪ねた。

ヘミングウェイの書斎。

塔のようになっている別室。

その最上階からハバナ方向を望む。黒いけむりは火力発電所。
そのキューバはいまどん底にいる。あの陽気で音楽の大好きなキューバの人びとがどんなつらい目に遭っているかと思うと気持ちがひどく沈んでしまう。

だからヘミングウェイには思い入れがある。そこでたまたまその前に読んでいたコリン・ウィルソンの「アウトサイダー」という評論にヘミングウェイが取り上げられていたので、今回思い立って全三冊の短編集(新潮文庫)を読んだということである。自然描写や闘いの描写が極めて優れていて、さすがにノーベル賞作家だと感心した。豪放に見えて繊細、緻密に見えて投げやり、さまざまな精神の振れが伝わってくる。改めて好きな作家になった。ヘミングウェイは昔の作家などではない。その作品は全く古くなったりしていない。
最後に収められている作品『異郷』という120ページほどある中編から、会話の断片を引用する。中年の作家(ヘミングウェイ自身である)と、娘ほど年の離れた恋人とのドライブ旅行での会話である。
「いい車ね、これ」。「運がよかったわね、こんな車が手に入って」
「まったくな」
「あたしたち、すごくツイていると思わない?」
「ここまではね」
「あなた、ずいぶん慎重になったみたい、あたしとのことで」
「そうでもないさ」
「ねえ、もっと陽気になってもいいんじゃない?」
「俺は陽気だよ」
「でも、陽気な口ぶりじゃないわ」
「じゃあ、陽気じゃないんだろう、たぶん」
「でも、もっと陽気になれない?ほら、あたしはこんなに陽気なんだから」
「いずれ陽気になるさ」ロジャーは言った。「約束する」
こういう会話が大半を占める小説であるが、そこに込められている男の哀しみのようなものが惻々とこちらに伝わってくる。哀しみとは、男という愚かな、どうしようもない存在を生きるしかないというそのことである。
飛行機事故などで体だけではなく精神もひどく痛んでしまい、ついには自死に至ったヘミングウェイの心の穴は、どのようなものだったのだろうか。
翻訳は高見浩。彼の名訳があってこそのヘミングウェイだと思っている。その高見浩が巻末の解説で書いている。
いかにもヘミングウェイらしいと思うのは、彼がノーベル賞の金メダルを後生大事に自宅にしまっておく、というようなことをしなかった事実だ。彼はそれをキューバのコプレにある聖母寺院に献納してしまったのである。そのメダルは今も、同寺院の礼拝堂に保存されている。ヘミングウェイの親友エレラ・ソトロンゴは、ノーベル賞の金メダルを、ヘミングウェイは愛するキューバの民衆に贈ったのだと解釈している。その説には同感である。
だがノーベル賞を受賞したこの頃から、ヘミングウェイは肉体的にも精神的にも急速に衰えはじめたようだ。直接的なきっかけは、アフリカでの飛行機事故によるダメージだったのだろうが、父親から遺伝したと思われる鬱病が、この頃から顕在化しはじめたのであろうか。それまでの人生で被った数知れない負傷の後遺症の蓄積も、衰弱に結びついていたのかもしれない。
作品を一つ一つ取り上げてどんな風に感じたか書き留めたいぐらいだが、他に読みたい本が目白押しなので、またの機会とする。
最近のコメント