待賢門院と西行と寂聴
瀬戸内寂聴が晩年に行った、『待賢門院と西行』という放送大学の講演を見た。西行については、芭蕉が慕って陸奥への旅の道しるべのひとつにもなったらしいことから、わずかながら承知している。待賢門院については西行との関係から、西行が慕った女性であるらしいと承知していた。それらの関係や人物像がこの寂聴の講演によってずいぶんとクリアになった。芭蕉という手がかりから新たなことに興味が膨らみ、それぞれについて知るほどに見える世界が拡がるのはうれしい。
待賢門院は恋多き女性として知られていて、同じような恋愛遍歴を重ねた瀬戸内寂聴だからこそ待賢門院に強く惹かれたのであろう。
待賢門院(1101-1145)の父は大納言藤原公実、出家前の名を藤原璋子(しょうし・たまこ)という。幼少時より白河法皇と寵姫の祇園女御のもとに養われた。長じて鳥羽天皇に入内する。はじめ女御、後に中宮となる。崇徳天皇、後白河天皇を産んだ母でもある。寂聴によれば、入内前に白河法皇と関係があっただろうという。幼い顕仁親王が践祚されて崇徳天皇になったときに院号を宣下されて待賢門院と称した。崇徳天皇は実は白河法皇の子ではないかともいわれる。
この崇徳天皇の運命はまた別の物語として語るに足る。上田秋成の『雨月物語』のなかの『白峰』という物語は、全国を遍路した果てに西行が四国の崇徳上皇の朽ち果てた墓の前でその亡霊に会う話である。
西行(1118-1190)はもともと佐藤義清(さとうのりきよ)という北面の武士であった。鳥羽院に奉仕していたときに待賢門院を見初めたのだというのが寂聴の説である。かなりの年齢差はあるものの根拠がなくはないようだ。1140年妻も娘もありながら23歳で出家して西行法師と号す。旅の法師のイメージがあるが、当初は京都とその周辺で庵を結んで過ごし、はじめて長旅に出たのが歌枕を訪ねての陸奥への旅であった。これは待賢門院が死去したからではないかというのが寂聴の説である。後に四国の崇徳院の白峰陵を訪ね、そこで庵を結んでいる。
この講演でいくつかのものが私の頭の中でつながった。関係が見えてくるとそれぞれの先に新たなものが見えてくる。それらがさらに新たな興味を生む。ものを知るということはうれしいものだ。
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こんばんわ!
あれどこかで見たような・・・そう思ったらわがまちの蚶満寺の写真でしたね・・・
投稿: でんでん大将 | 2026年8月11日 (火) 20時06分
でんでん大将様
はい、そうです。
象潟が島々だった時代の、坩満寺の舟つなぎの場所のすぐ近くにありました。
投稿: OKCHAN | 2026年8月11日 (火) 21時28分