『異邦人』
カミュの『異邦人』を読みたいと思いながら、持っていたはずのこの本が見当たらないので諦めていた。古い文庫本を処分しようとして整理したら、だいぶくたびれた状態でこの本が出てきた。
読んでいたら、初めて読んだときの記憶を思い出すとともに、舞台のアルジェの強烈な太陽、青空、海、砂、熱気、体臭などがリアルに感じられてきた。やはりカミュはノーベル文学賞にふさわしい作家だと改めて感じた。サルトルとともに実存主義作家だと評されたことに反発して、自分は実存主義作家ではないとカミュは反論したらしいが、私にはやはりカミュは実存作家だと感じられた。
物語の主人公ムルソーが見る世界はまるで何かベールがかかっているようである。他者に対して無関心で、実感が伴っていない。母の死について当然の振る舞いが期待されながら、涙も流さず、悲嘆にくれたりもしない。恋人から結婚したいかと訊かれて、結婚してもいいと答え、愛しているか、と訊かれれば、たぶん愛してはいない、と答える。彼にとってのリアルな実感は人間関係にはなくて、ただギラギラと輝く太陽であり、夕暮れの美しさだけのように見える。
友人との関係の行きがかりから、偶然も重なってアラビア人を射殺してしまうが、そのムルソーの無関心こそが彼の非情性、非人間性であるとして、彼は殺人そのものよりもその非情性を断罪されていく。無信心、無関心はあり得べからざる罪である、ということで非難されるのである。
人は人間関係の中で決められた振る舞いを期待される。そしてそう振る舞うことで自らの気持ちもそれに伴っていると見なされる。そういう振る舞いに意味を感じないムルソーは、実はあまりに自分に正直に生きているということかもしれない。感情がないわけではない、その感情に優先して振る舞いから生きるという世の中の常識に共感できないのだ。
ムルソーの感覚にベールがかかっているようだ、というのは、実はちがっているのだ。世の中の方が常識的行動や信仰という、ある決められたもので自動化されている、そういうある意味ベールのようなもので覆われているともいえるのだ。ムルソーの方がそのベールを拒否し、自分自身の感覚をリアルに生きているのだ。だから私はこの小説が実存的な小説であり、そしてカミュが実存主義だとあらためて思った。
異邦人とは、他者と振る舞いを共通にしない者を指すのだろうと思う。出来ない者を指すのではない。
« 心配したほどではない | トップページ | 地域包括ケア病床 »
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 『悠々として急げ』(2026.09.02)
- 『良心的』(2026.09.01)
- もっと早く知っていたら・・・(2026.08.31)
- 中国関係の本(2026.08.28)
- 『生と死の考古学 縄文時代の死生観』(2026.08.27)


コメント