古代史
中国四川で発掘されて脚光を浴びている三星堆遺跡を取り上げたNHKの番組を見た。三星堆(さんせいたい)は三星村というところにあるのでそう呼ばれる。実はかなり前、戦前から発掘ははじめられていたが、遺跡のある地域が広いので、全貌が明らかになったのは二十世紀の終わりになってからである。いわゆる漢民族による中原の文明を黄河文明と呼んで、中国の古代はそこから発したように捉えられてきたが、二里頭遺跡群をはじめとして長江流域や江南地区など中国全土でさまざまな発見発掘が行われていて、その古代史は時間と広がりを拡大させているようだ。いまは存在が確定されていないが、殷の前の夏の遺跡が出土するのではないかと期待している。
たまたま故宮の文物を論じた四冊本の第一巻は中国古代であり、それを読んだところでもあった。青銅器を主体としたその遺物の造形と、今回の三星堆の出土物である青銅器の比較が出来ておもしろかった。他の地区では青銅器は祭祀用ではあるものの、器物が主体である。ところが三星堆で出土したものは大型でしかも人物や神が造形されたものが多いのが特徴だ。その理由、そしてその三星堆の遺跡に住んだ人びとの由来について、中国の学者たちがさまざまな推論を述べていた。それは根拠を伴うものであるだろうが、まだ推論の部分も多い。しかしNHKのナレーションでは断定的な言い方をしているに感じるときがあって気になった。そもそも中国は歴史が政治的なバイアスを受けざるを得ない宿命を持つ。特に現代はそうである。その辺はもう少し気をつけるべきだろうと思う。気にしすぎだろうか。取材のために仕方のない面もあるのか。
それとは別に、放送大学のアーカイブから『日本海域の古代史像』という少し古い講演番組も見た。これは以前一度見ているが、先日能登の珠洲にある須須神社へ行ったのはこの番組が記憶にあったからである。この講義は大陸の文化が日本に流入したルートは南方や九州が窓口だったとされているが、広く日本海沿岸(山陰、北陸、東北、北海道)が窓口であった、という考察を発表する講義である。その根拠を論じるには私の知識は力不足だが、さまざまな知識の断片が想起されて、なるほどと思うことがある。司馬遼太郎の『オホーツク街道』や『北のまほろば』を読むとその意味がわかるだろう。この講義では特に出雲半島東端の美保神社と能登の須須神社の存在が大きく取り上げられていた。美保神社は二度ほど訪ねているので、先日地震の被災の様子を見るのもかねて見そびれていた須須神社を見に行ったのである。
ものを考えるときに、具体的なものの記憶がある方が考えやすい。やはり論じられているものはそこへ行き、現物を見るに如かず、である。それは昨年東北などの縄文遺跡を訪ね歩いたときに実感した。
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コメント
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おはようございます
私の想像(妄想?)も混じっていると思いますが、恐らく殷周革命くらいの頃から中国沿岸部の住人たちが新天地を求めて(恐らく噂くらいならあったのでしょう)種籾や金属器(青銅器だったのでしょう)を持って日本にそれこそ散発的に来たのだと思います。少なくとも朝鮮半島から来た、と言うのはないわけではなかったのしょうが、かなり違った形で大陸文化が日本に来たのでしょう。
その上陸点が、北九州であり、出雲半島だったのだと思います。
では、
shinzeiでした
投稿: shinzei | 2026年8月 4日 (火) 06時06分
shinzei様
以前書いたことがありますが、飛鳥寺の伽藍配置は他に例のない高句麗様式だということです。
蘇我氏や聖徳太子の信じた仏教は高句麗経由であった可能性が高いようです。
高句麗は後に滅ぼされましたが、その流れから多くの渡来人がやってきて、それがもたらしたものが一部の豪族の繁栄の背景にあったことは想像されます。
また、渤海との交易では北陸などが上陸地であったらしいこともわかっているようです。
投稿: OKCHAN | 2026年8月 4日 (火) 07時58分