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2026年9月

2026年9月 6日 (日)

雑感

 Eテレの世界史の番組を見ていて、ローマ帝国が滅亡し、主権国家が誕生した、というくだりで帝国というものの意味をいまさらながらに考えた。帝国というのは多民族多宗教を緩やかに束ねて支配するという体制であって、その支配は緩やかで移動もかなり自由だったが、主権国家は画然とした国境を境に支配が強固になり国家間の競争、そして戦争が常態化した。当初は王制だった主権国家も、フランス革命、続くナポレオンの出現で、その王制の主権国家は倒れていき、自由平等を旗印にする国民国家となっていった。それは同時に徴兵による国民皆兵体制へと変わり、つまり国力を賭けて国と国が戦う時代となった。軍隊対軍隊の戦いが、一般市民を巻き込む総力戦に、そして大量の死を生むようになった。

 

 国民国家よりも帝国の方が、いわゆる一般市民にとってしあわせだったのではないか、などとざる頭は考えたりした。ヨーロッパの世界への拡大が、宗教の押し売りと正義の押し売りにつながったという気がしてしまう。それは未だに続いているのではないか。主権国家というものが本当に帝国よりも好い体制だったのだろうか。主権国家の乱立こそがいまの世界の安定を損なう要因にも思えてしまう。だから理想的な世界統一国家を夢見たりした時代もあった。

 

 いま中国やアメリカが目指しているのは自国が他を圧倒的に支配することで、それはあたかも帝国体制へ戻ろうとしているように見えてしまうが、その目指す帝国は過去の帝国とは似て非なるものではないか。自国のみに正義があり、だから利益も独占しようという思惑が根底にあるようにしか思えない。だから帝国ではなく、帝国主義、というべき過去の亡霊(ナチスドイツなど)の再出現か。

 

 EUという体制は、主権国家乱立からゆるい帝国時代への回帰を目指したものなのかもしれない。各国の、極右と言われる政党の台頭は、主権国家を死守しようとする動きであり、他との交流を厳格に制限しようとする意思(移民排斥など)の表れだろう。だからEUから距離を置こうとする。

 

 ところで、中国の歴史を見ると、漢民族以外の民族が支配していた時代の方が版図が広く、しかも他民族との自由な交流が盛んに行われていたことに気づく。元や清がそうだったし、実は隋や唐の時代もその支配層は多分に北方民族系であった。外部世界の価値観を排除しない支配構造だった。中華思想はそもそも外部というものが存在しないという建前である。それを考えると、いまの習近平が目指す世界支配とは、中華思想どころか、まさに帝国主義でしかないのではないか。

 

 こんなことを考えたからといって何か意味があるわけでもないが、これから世界はどうなるのだろう、ということについて自分なりの見通しくらいは持ちたいではないか。世界史音痴ではあるが、それを考える手がかりの一つかと思っている。

2026年9月 5日 (土)

天気が好いので

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シンガポールで、印度系の寺院や市場のあるあたりを散策したときに撮ったもの。こういう華麗な色彩とイメージのものに心惹かれる。

一度も行ったことがないけれど、たぶん印度に行ったら魅了されたかもしれない。一神教的な世界よりこんな偶像に溢れた賑やかな世界の方が好きだ。

天気がいいので久しぶりに洗濯をした。午後は妻の病院へ行ってくる。正直、精神的な負担である。それなりの何か気持ちの治まり用のある反応があれば救いなのだが、妻は自分がなにもかも面倒を見てもらうのが当然、という考えなので、むなしいのだ。だから二度ほど行った娘は、いまは一緒に行こうとしない。

2026年9月 4日 (金)

ボロブドール

書くことがないわけではないが、まとまらないので十年ほど前に訪ねたインドネシアのボロブドールで撮った写真を二枚ほど見ていただく。

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仏像の後ろ姿ばかりで恐縮だが、ここで見たものは忘れがたい。

外は雨

 昨日も雨の一日だったが、本日も終日雨らしい。汗をかくとこまめに肌着を着替えるようにしているから、雨で洗濯物が干せないのは困るが仕方がない。さいわい大雨にはならないようだ。大雨で困っている地域もあるようで、申し訳ないような気持ちになる。

 

 そういえば、先日病院へ定期検診に行ったとき、病院周辺に残っている田圃の脇を通ったら、農業用水にたくさんの小魚が白い腹を見せて浮いていた。中には二十センチほどもある魚もあった。その日は特に猛暑の日というわけでもなかったから、暑さで酸欠、とも思えなかった。何か毒物が流れたのではないだろうか。この雨でその毒物が薄まり、流れ去っていればいいのだが。

 

 カイワレの種を蒔いては収穫して楽しんでいる。ようやく昨年採った種をすべて蒔き終わった。種がなくなったのではない。今年の春先に採った種がそれ以上にたくさんある。昨年の種でもほとんどすべて発芽していた。今年のものならさらに元気に発芽するだろう。さもしいけれど、ただで何かが得られるのがなんとなくうれしい。ニラに薹が立ってきたのですべて刈ってしまった。種を採るつもりはない。既に種を小ぶりの鉢に蒔いて、細い葉がだんだん成長している。いまのニラの鉢は二つあり、一つは数年たっているので根詰まりを起こしているから一度全部抜いてしまおうと思う。それにしても暑さにも乾燥にも強いニラには感心する。

 

 久しぶりに米を買った。久しぶりなのは、あまり米の飯を食べなくなっているからだ。夏だから冷や麦や冷やし中華、そば、スパゲティなど、麺類の回数が多い。さらに最近はパン食で済ますことが増えている。粒食から粉食にシフトしている。好きな炊き込みご飯や混ぜご飯は、夏は傷みやすいからいまはあまりつくらない。お米の方が体にいいだろうと思いながら、日本の農政のお粗末さにうんざりして、お米のせいではないとわかりながらなんとなく米そのものに嫌気がさしている。

2026年9月 3日 (木)

確かにそうかもしれないけれど

 開高健の文章をあれこれ読み散らしていたら、文化人類学について科学的とは言いがたく、空想的だというような意味のことが書かれていた。リアリズムに徹する開高健には文化人類学が砂上の楼閣に見えていたのかもしれない。そういうことを言い出せば、そもそも社会科学や人文科学というのは、リアリズムを根底としているつもりの近代科学から見ればいささかそう見えてしまうことは否めない。わからないではない。考古学も歴史も社会学も心理学もそう見られてしまいかねないところがある。科学的であることの基盤である検証が困難なものを扱うからだ。

 

 ところが私はそういう人文科学や社会科学を多少はおもしろく感じていて、もしかしたらそういう砂上の楼閣、空想の積み重ねを楽しんでいるところがあるのかもしれない。考えてみれば、しかし近代科学の二元論的世界観そのものが、実はリアリズムに見えていながらも、一つの思い込みではないか、と疑っているところもある。文化人類学は「人間とは何か」を追求する学問だと私は思っている。異文化を価値の上下の比較で捉えるという西洋的な上から目線ではない、それぞれの存在意味を見いだすという捉え方をするのが文化人類学だと思っている。ただ、そのフィールドワークから把握されたものを記述するときに、どうしても砂上の楼閣的分析が行われやすいということは仕方がないことかもしれない。

 

 放送大学で「人新世時代の文化人類学」(全十五回)という講義をちょうどいま見直しているところである。さまざまなテーマで、現代の人類の現状を考察し、人間とは何か、どうしてこんな風であるのか、これからどうなるのかを考察していくという講義だ。見直している、というのは一度リアルタイムで見たことがあり、それを録画したものをもう一度おさらいしているということだ。見直したものから消去している。消去しないとまた見ればいいというおざなりな見方になりかねないからだ。主任講師二人以外にもテーマによっていろいろな講師が講義をするが、とにかくみなよくしゃべる。立て板に水である。それだけ語りたい内容が溢れているということも出来るが、自分の積み上げたものをひたすら語るに忙しそうで、こちらは開高健の毒が回っているから、話にのめり込みきれないで居る。迷惑なことであったが、ただ、受け売りを得意とする身としては、待てよ、と一歩引くことも必要だとも思っている。

 

 考古学や歴史の面白さも、深く考えるほどどうしても空想的になってくる面から来る面白さかもしれない。そういうのが、繰り返すけれど、私は好きである。

騒音

 二階上の階で工事をしている音が聞こえる。先月、盆前にチラシで案内があった。マンションはコンクリートと鉄筋で出来ているから音が響く。あたかも階上すぐの部屋で工事をしているように聞こえる。工事の内容に依るのかもしれないけれど、ほとんど聞こえない日もある。案内のチラシには盆明けから今月後半までの予定だと書いてあった。古いマンションだから傷んだ部屋も多く、工事は頻繁ではないにしてもしばしば行われる。それにしても一ヶ月も工事をするというのは今までないほど長い。

 

 たぶん床、風呂、台所など、全面的な改装なのだろうと思う。床をさわるときと、特にうるさいのは風呂の工事のときだ。コンクリートをはつる音は嫌な音で、その音がするときは本を読み続けることが困難になる。先日は二日ほどその音がしていた。ヘッドフォンで映画を見たり音楽を聴いているとだいぶましなのだが、いまは病院からしばしば電話がかかってくるのでそれを聞き逃しかねず、ヘッドフォンでの対策はとれない。昨夕もそんな騒音の中、今度転院する病院から転院時に忘れず持参すべきものなどの連絡があった。

 

 自分の部屋もだいぶ前ではあるが、全面フローリングや風呂のリニューアル、台所のリニューアルをしたので、お互い様だとは承知している。それにしても一ヶ月は長い。いまも床をトントンと叩いている音が断続的にしている。逃れて遠出の旅をしたいなあ。

2026年9月 2日 (水)

体力が衰えている

 つい先ほど、予約していた泌尿器科(慢性疾患を抱えている)の定期検診から帰ってきた。一時黒い雲が湧いていたが、さいわい降られることはなく、無事に帰宅した。検査結果は特に問題なし。ただ、前立腺に耐性菌が棲み着いているので、過労、発熱などで体力が低下するとそれが暴れ出すから注意するように指導されている。何度かつらい目に遭っている(炎症が起こり、激痛を伴う排尿困難で脂汗を流す)のでよくわかっている。

 

 その病院に行く前に床屋に行こうと思い立って、少し早めに出て、隣駅の向こうの床屋に立ち寄った。床屋から病院はそれほど遠くない。床屋は満員で、待っている人が十人居た。格安床屋だからあまり時間はかからないはずで、大して待たないだろうと思ったら、どうもいつもよりも理髪師の数が少ないようで、回転がすこぶる悪い。少しイライラする。シニア割引があるからほとんどおじいさんである。それもかなりありがたくなりかけているおじいさん(たぶん私もそう見られているだろう)が多い。なかなか床屋もたいへんだ。いつものように丸刈りにしてもらう。

 

 そういえば、病院のあと処方箋の薬をもらう薬局で、ほとんど耳が聞こえないらしいおばあさんと、若い薬剤師のやりとりが延々と繰り返されているのを聴いていた。薬剤師のお嬢さんはルールに則って客に正しく必要なことを伝えないとならない。ところがおばあさんはほとんど同じ事だけ繰り返すだけで聞こえないのか聞こうとしないのか、全く話がかみ合わないままである。薬剤師は困り果てていたけれど、おばあさんは面倒くさくなったのか、わかった、といった。何がわかったのか知らないけれど、それで話は終わったようだった。あれでは生活が大変だろうなあ。話の様子では息子が居るらしい。補聴器を買ってやったらどうだろうかと他人事ながら思った。

 

 我が家に帰り着いたら全部で八千歩弱歩いている。この頃ほとんど外歩きをしていないから、帰り着いたら汗みずくで、なんだかクラクラする。あわてて少し塩とポッカレモンをたらした冷たい水を飲んだら少し恢復した。どうもかなり体力が衰えているようだ。

『悠々として急げ』

 先日、たしかEテレで開高健とベトナム戦争についてのドキュメントを再放送していた。開高健の本は私に日本文学の扉を開いてくれた恩義があるとともに、ベトナム戦争について考えるという手がかりを与えてもくれた。書棚にも十冊あまりの本が並んでいる。

 

 久しぶりに開高健を読もうと思ったが、小説を読むのは少し重く感じたので、対談集である『悠々として急げ』という本を棚から引き出して読んだ。特異な人ばかり十二人が対談相手に選ばれていて、彼が世界中を歩き回って仕入れたアンダーグランドなものまで含めた膨大な知識を駆使して相手と渡り合っている。十二人の最後は自分自身であり、「けん」と「たけし」の対談である。限界を超えた世界を嬉々として生きている人たちは、たしかに生きることを楽しんでいて、そうありたいと思いながらもがいている開高健の、彼らをうらやむ気持ちがなんとなく感じられた。

 

 そのあとブラッド・ピット主演の『フューリー』という戦争映画を見た。第二次世界大戦末期、ドイツまで侵攻したアメリカ軍が最後のドイツ軍の猛反撃の中で苦戦する様子が描かれている。凄惨なシーンが連続した、戦争というものの現実を思い知らせてくれる映画で、たぶん開高健もベトナム戦争に従軍したときに、このような世界を眼前にしたのだろうと思った。この経験の前と後とでは、開高健はたぶんちがう人間になったのだと思う。

2026年9月 1日 (火)

なりゆき

 妻の入院している病院に行って、頼まれたものの一部を渡してきた。受け入れ先がないだろうと思っていた妻の一時転院先が見つかってしまった。見つからなければリハビリを打ち切ってもとの病院に帰るしかなく、私には面倒がないのでありがたいというのが本音だったが、リハビリを継続しながら短期だけ受け入れてくれる先が見つかったということは、また転院転院を繰り返すということで意に反するが、リハビリをなるべく長く続けることは、本人の今後の日常生活維持のためには良いことであるからなりゆきに任せることにする。

 

 来週転院することが決まった。問題はそのことで本人が混乱してしまうことだが、わかっているのかいないのか、私にはわからない。わからせたつもりになっても、翌日には聞いていない、というだろう。退院手続き、支払い、入院手続きなど、いろいろと面倒であり、そういうことがいまの私にはとてもわずらわしい。もう少し前ならどうということのないことでも、いまはひどく億劫に感じてしまう。些細なことであってもイレギュラーな出来事がひどく苦痛で、それによる心の乱れがなかなか治まらない。精神がひどく衰えている。

 

 転院の少し後に、過日亡くなったK君を、旧友たちと偲ぶ集まりがあるので大阪に行く。飲み過ぎるかもしれない、つまらぬことを口にするかもしれないと少し心配している。

『良心的』

 頭が生ぬるくなりかけているので、久しぶりに山本夏彦を読んだ。二ページから三ページの短文のコラムをぎっしりと詰め込んだ『良心的』(新潮文庫)という本で、短い中に意を詰め込んでいるのでレトリックは二転三転して、それについていくうちに、そのわさびの辛さが効いてくる。ぼんやり読んでいては意味がつかめないのだ。こういう文章が書けたらいいなあと思うが、この文章を形にするためにどれだけの推敲を重ねているのか、それを想像するととても私に出来るものではない。せいぜいそれとなく影響を受けて似た部分がたまたま出現するとうれしい、というところでまでである。

 

 諧謔に紛れさせることはあっても、あまりプライベートなことをストレートに書かない著者が、いつもよりは自らのことを書いていたりするのは、このコラムを書いている途中に細君を亡くしているからで、さらりとした言葉がかえって埋めようのない何かを強く感じさせる。喪失感、などと書いたら、そんな言葉は嫌いだ、と叱られそうだ。

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