確かにそうかもしれないけれど
開高健の文章をあれこれ読み散らしていたら、文化人類学について科学的とは言いがたく、空想的だというような意味のことが書かれていた。リアリズムに徹する開高健には文化人類学が砂上の楼閣に見えていたのかもしれない。そういうことを言い出せば、そもそも社会科学や人文科学というのは、リアリズムを根底としているつもりの近代科学から見ればいささかそう見えてしまうことは否めない。わからないではない。考古学も歴史も社会学も心理学もそう見られてしまいかねないところがある。科学的であることの基盤である検証が困難なものを扱うからだ。
ところが私はそういう人文科学や社会科学を多少はおもしろく感じていて、もしかしたらそういう砂上の楼閣、空想の積み重ねを楽しんでいるところがあるのかもしれない。考えてみれば、しかし近代科学の二元論的世界観そのものが、実はリアリズムに見えていながらも、一つの思い込みではないか、と疑っているところもある。文化人類学は「人間とは何か」を追求する学問だと私は思っている。異文化を価値の上下の比較で捉えるという西洋的な上から目線ではない、それぞれの存在意味を見いだすという捉え方をするのが文化人類学だと思っている。ただ、そのフィールドワークから把握されたものを記述するときに、どうしても砂上の楼閣的分析が行われやすいということは仕方がないことかもしれない。
放送大学で「人新世時代の文化人類学」(全十五回)という講義をちょうどいま見直しているところである。さまざまなテーマで、現代の人類の現状を考察し、人間とは何か、どうしてこんな風であるのか、これからどうなるのかを考察していくという講義だ。見直している、というのは一度リアルタイムで見たことがあり、それを録画したものをもう一度おさらいしているということだ。見直したものから消去している。消去しないとまた見ればいいというおざなりな見方になりかねないからだ。主任講師二人以外にもテーマによっていろいろな講師が講義をするが、とにかくみなよくしゃべる。立て板に水である。それだけ語りたい内容が溢れているということも出来るが、自分の積み上げたものをひたすら語るに忙しそうで、こちらは開高健の毒が回っているから、話にのめり込みきれないで居る。迷惑なことであったが、ただ、受け売りを得意とする身としては、待てよ、と一歩引くことも必要だとも思っている。
考古学や歴史の面白さも、深く考えるほどどうしても空想的になってくる面から来る面白さかもしれない。そういうのが、繰り返すけれど、私は好きである。


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