旅行・地域

2017年11月 7日 (火)

雲南旅行(1)

 7日夕方、無事雲南旅行から帰ってきた。若干の手違いなどがあり、少々不安な思いもしたが、私を入れて同行三人はどちらかと云えば楽観的なタイプばかりで、その中で私がもっとも小心であろうか。しかし多少の手違いは乗り越えれば却って思い出に残るものでもあり、あのときはこういうことがあったね、という話題となる。とにかく地元のガイドには世話になった。

 心配していた天候は、標高5600メートルの玉龍雪山を見上げる絶景の場所、雲杉坪(うんさんぺい)、ここは標高3300メートルだが、ここで雪に見舞われた。通常よりも一月も早い積雪だそうで、たかが数センチの雪だが原始林の中を行く木道は滑りやすくて歩きにくい。中国人観光客はにわかの雪に大よろこびであるが、こちらはやや高山病気味になり、生まれて初めて酸素ボンベの世話になった。しかも防寒していったのに寒さに震えることになった。もちろん目当ての玉龍雪山はかすかに下の方が見えるばかりで残念なことになった。

 これが最悪で、次第に天候は回復、次の写真のような玉龍雪山の勇姿を見ることが出来た。あとになるほどよくなる旅で、結局終わりよければすべてよし、のまことに愉しい旅であった。

Dsc_4954 虎跳峡で撮影

 次回から手順を追ってこの旅行を詳しく紹介していくのでよろしくお願いしたい。

 いろいろな方から旅行の無事を願うコメントをいただいたことをこころから感謝申し上げます。おかげで無事帰れたのだと思います。個別にコメントを返しませんがご容赦ください。

2017年9月 5日 (火)

廃墟と世界遺産

日光から渡良瀬街道を下ると足尾を通る。足尾銅山観光の前には以前は「足尾を世界遺産に」と垂れ幕や看板が並んでいたがいまはどうだろうか。今年一度立ち寄っているので今回はパス。


わざわざせまい旧道を通る。

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こんな廃屋がある。廃屋にはちょっと惹かれる。人が生活していた空間が、朽ちて自然に帰っていく途中の姿が時間の経過を感じさせるからだ。

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人が使わないと建物の荒廃は加速するという。

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多分銅山の関係者の使用していた建物であろう。

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樹木も建物を覆い始めている。

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煉瓦の部分は残るのに木造の部分は自壊している。


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こういう建物によるひとりでいたら怖いだろう。

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人類が死滅したあとみたいだ。

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これはまだ現役の東京電力の変電設備。しかし荒廃の兆しが現れている。

世界遺産への意志と、荒廃の放置が矛盾しているような気がする。

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銅山関係の工場施設。立ち入り禁止で、ここも荒廃が始まっているが、ときどき車の出入りがあるので一部だけは稼働しているのかも知れない。

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このようにまったく補修の様子がない。

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工場の向こうの山を見上げると、こんな姿をしている。ここも採掘場だったのだろうか。

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このように門の上を渡良瀬鉄道が走っている。列車が通らないかしばらく見ていたが来ないので諦めた。

ところが。

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バッグにカメラをしまって歩き出してすぐに列車の音がした。あわてて引っ張り出したがときすでに遅し。何とか通過した後ろ姿を撮影した。

このあとしばらく走り、草木ダムのダム湖の草木湖で一息入れる。

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この時期としては水量はまあまあか。ちょっとだけ覗いているのは男体山か。

駐車場の脇のトイレで。

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何を撮ったか分かるだろうか。

プレートに「和風」とあるのだ。「和式」は分かるが「和風」とは・・・。おかしくなってにやにやしてしまった。

タイルにゆがんだシルエットが映っているのはもちろん私である。

へんな最後になったけれど、これで今回の旅の報告はすべて終わり。

:華厳滝

東北の旅でいくつかの滝を見たので、華厳滝を見たくなった。華厳滝といえば、先年、鬼怒川が氾濫して水害のあったまさにその大雨の日に友人と華厳滝を見に行った。エレベーターで滝の正面に降りた。その日の水量は折からの大雨で毎時60トンを超えている、とのことであった。


平生が1~2トンであるからそのすさまじさが分かるだろうか。あまりの水量に水煙が天まで舞い上がり、まさに滝のなかにいるようで、轟音と水しぶきでなにも見えないのである。一生に一度しか経験できないことだっただろう。もちろん写真を撮るどころではなかった。

それにしてもそんな状態なのによく滝の正面に降りるエレベーターを動かし続けていたものだ。なにも見えませんよ、と言われたけれど、滝の中に入る経験は出来た。

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エレベータを降りる前に上から見下ろす。

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横手の小さな滝が美しい。

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全体はこうなっている。

ここからエレベーターに乗り、岩盤の中を100メートル降りて正面から見る。このエレベーターは昭和四年だか五年だかに作られたそうだ。そんなにむかしからあるとは知らなかった。

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エレベーターを降りれば滝の正面から見ることが出来る。

この日の水量は毎秒1トンだそうだ。それでこの迫力なのである。

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美しい。

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周辺をすべて画面に入れてみる。滝だけよりもこの方が好い気がする。先年の大雨のときはこの崖のはるか上まで水しぶきが舞い上がり、水煙が山と空を覆っていた。なにしろこの60倍の水量が落下していたのである。

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水の造形が千変万化して見飽きない。

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自然は美しいと思う。不思議だと思う。ただ水が下に落ちているだけなのに。

滝を堪能した。来てよかった。やはり華厳滝は好い。

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滝をあとにすると男体山が姿を見せた。半月山の展望台まで山を登れば中禅寺湖と男体山の絶景が見られるけれど、滝の余韻を残したくてパスした。登ってきたいろは坂を再び下る。

2017年9月 4日 (月)

殺生石

那須高原の宿から下る坂道の途中に殺生石というのがある。


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駐車場に車を置いてドアを開けると強い硫黄臭(硫化水素臭)がする。看板によれば、松尾芭蕉は奥の細道行のときにここに立ち寄ったそうだ。

こんな坂道を下からてくてく歩いて登るのはさぞ大変だっただろう。昔のひとは本当に足が丈夫だったのだなあと思う。

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こんな木道を歩いて行く。正面の崖の大きな石が殺生石らしい。

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近くまで行く。石が人を殺したのではなく、多分ときどき硫化水素の濃度が上がり、そのガスの毒で人が死んだのであろう。

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途中に湯の花畑がある。こんな仕掛けで湯ノ花を採取しているらしい。勝手に中を見るわけにも行かないので眺めるだけ。もれる湯気ももちろん硫化水素臭がする。

通り道は二手に分かれていて、帰りは違う道を行くと・・・。

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こんなお地蔵さんがたくさん並んでいる。

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これが親玉(そんな言い方はしないか)らしい。

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とにかくみんな同じ方向を向いて手を合わせている。

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何百体と並んでいる。

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無心の表情が好いので一つずつみんな写真が撮りたくなる。

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お気づきだろうが、みな顔に比べて手が大きいのである。

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登ってきた方を振り返る。青い屋根が駐車場前のトイレ。はるか彼方に下界の那須の街がある。

登り口で茶臼岳の頭の先が見えていたのだが、ここからだと却って見えない。

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駐車場まで降りて、さらに坂道を杜甫で上がり直してようやく山頂が見える場所を見つけて撮影。茶臼岳は現役ばりばりの活火山であり、いま噴火してもおかしくないのである。

噴火口は絶景で見ものらしい。もうちょっと若ければなあ。

これで東北旅行は終わりだが、この晩群馬の友人と会食するので北関東へ宿泊。時間があるので日光に立ち寄り、大好きな渡良瀬街道を走って下界に降りることにする。

一気に南下

碇ヶ関の宿で疲れを取るために、昼過ぎまでゆっくりしたので次の宿泊地・花巻へは移動するだけだった。


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途中のパーキングで岩手山を見る。空はもう秋の気配。

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望遠で。岩手山も独立峰だから雄大な姿を見せる。

時間があれば八幡平の山中を走っても好いのだが、時間もないし天気が今ひとつなのでまた今度にする。

その晩の宿は花巻温泉だったが、今ひとつだったことは先日報告した。相性の問題だと思う。だから書くことがない。

翌日は朝小雨交じりだったものの南下するに従って次第に空は晴れてきた。その晩は那須高原。茶臼岳のロープウエイに近い山上の宿だ。

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急勾配の坂道を一気に登っていく。途中の展望台に立ち寄る。

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那須岳全体の姿。

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右下に白く見えているのがロープウエイの駅。快晴となった。

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下界を見下ろす。

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このあと宿の前を通過してロープウエイに向かう。看板はロープウエイ山頂駅前にあるもの。ここが那須の茶臼岳の九合目に当たる。

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茶臼岳山頂までここから約五十分というが、私なら一時間以上、もしかしたら行きつかないかも知れない。それに行ったら帰ってこなければならない。と言い訳して諦める。

眺望は本当は好いはずなのに山頂駅の作りの問題か、肝心の目の前の山が見えない構造になっていて腹立たしい。

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この写真も建物やほかのものに遮られている中をかろうじて望遠で撮ったもの。どうして向こう側に展望台を作らないのか理解できない。

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下界はよく見える。雲海が目の下にある。

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ゴンドラは100人以上乗れるという大型のもの。スピードも速い。高低差800メートルあまりを四分で登る。窓ガラスがうすい色ガラスなので(多分偏光ガラスだろう)まぶしくなく景色を見ることが出来るが、写真を撮ると色が変になってしまう。ちょっと補整した。

それにしてもこの景色は山上駅ではロープウエイの駅に遮られて見ることが出来ないのだ。信じられない。見たかったら茶臼岳の山を登らなければならないようだ。

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宿の前からの景色。左手に少し覗いているのが茶臼岳。

宿はとてもフレンドリーで居心地がよかった。風呂もよかった。もちろん温泉である。水がとても美味しい。夜、外で星空を見る会があるということだったが、飲んだくれたのと疲れで残念ながらパスした。何しろ気温が10℃ちょっとくらいしかないから、しっかりした上着がないと風邪を引いてしまう。そんな用意もないし・・・。

翌日、坂を下りながら宿からすぐ下の殺生石というのを見に行く。

2017年9月 3日 (日)

色彩の洪水・立侫武多の館

夕方無事わが家に到着した。わが家のすぐ近くの交差点でバイクと消防車の衝突事故があったらしく、家の手前で足止めを喰らったけれど、自分でなくてよかった。


これからまた日常生活が始まるが、リズムを取り戻すのに少し時間がかかるかも知れない。雑用もいくつかあるので明日は忙しい。

さて旅の私はまだ五所川原にいる。

斜陽館から数キロのところに立侫武多(たちねぷた)の館があるというので見に行った。公営の駐車場に車を置くと、入場券の半券を提示すれば二時間まで無料とのこと。目の前に大きな建物がある。入り口は向こう側なので建物をぐるりと半回りしないといけない。

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何だこれは!と思うほどでかい。

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下から見上げると首が痛くなるほど大きい。高さ二十数メートルあるという。想像していたよりもはるかに大きい。

展示している立侫武多は三体。三年使われてから破却されるので、ここに展示しているのは今年作られたもの、昨年作られたもの、一昨年作られたものの三体である。毎年テーマを決めてそれに基づいて冬から作りはじめるという。

青森県には30カ所以上ねぶた、またはねぷたの祭があるが、有名なのは青森のねぶた(横に大きい)、弘前のねぷた(扇形)、そしてこの五所川原の立侫武多である。

南部と津軽の軋轢があり、青森県は西と東に二つに別れると言われる。だからねぶたとねぷたと呼び名まで違うのである。その歴史的背景は聞いたことがあるけれど詳しくはない。

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もう一つの立侫武多。実はこの後ろにももう一体あるがすぐ近いので、上からしか全体が見えない。

ある程度眺めてからエレベーターで四階まで上がる。それが最上階で、一番上から見下ろすことが出来る。

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上から見るとこうなっている。豪華絢爛、たくさんの付属物がそれぞれに素晴らしい。

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顔。

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顔。

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顔。

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手。・・・いちいちいわれなくても見れば分かるか。

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こんな絵がいくつも描かれている。とにかく色彩の洪水なのだ。

定時ごとにライトが消されて壁面の巨大スクリーンに立侫武多の歴史と実際の祭の様子が描き出される。立侫武多は一度廃れてしまい、技術も失われたが、1996年に図面が発見されて、二年掛けて再生したという。

祭の盛り上がりもよく描かれていた。いろいろなことに感情移入してしまって、ものすごく感動してしまい、涙があふれてしまって止まらなくなった。どうしてそんなに感動したのか我ながら不思議だったが、ハンカチが濡れるほどだったから半端ではない。明るくなったときにはちょっと恥ずかしかった。

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下の「雲漢」の文字の意味は、天の川である。

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建物の周りをこのような回廊がらせん状にめぐっていて、高さ違いの絵柄をじっくり見ることが出来る。ちょうどここが橋になっていて、この橋は跳ね上げて開くようになっている。
うしろの壁も開く。

そう、ここがすべて開いて展示されている立侫武多が引き出されるのである。立侫武多が町を練り歩けるように、電線などはすべて地中に埋設してあるというから徹底している。

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五所川原と言えばこの人を忘れてはいけない。

大満足と感動の立侫武多館であった。近くへ来たら見ることをお薦めする。すごいです。

2017年9月 2日 (土)

義経伝説と斜陽館

昨晩は酔うほどにハイテンションになり、あらぬ事を口走ったような気がするが、覚えていない。無理に思い出せば思い出せるけれど、思い出したくないから思い出さない。楽しかったことだけを記憶に留めておくことにする。


竜飛からすぐ西の外ヶ浜は義経が蝦夷へ渡海したという伝説の残る場所である。その場所へ立ち寄ってみる。

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外ヶ浜は雨。

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右の木標には源義経渡海の地とある。

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義経は龍神となって蝦夷に渡ったのだろうか。

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何と静御前も一緒だったのだ。

静御前といえば、義経の子を身ごもっていたので、陸奥に落ち延びていく義経一行と別れて身を隠すが、頼朝に捕まってしまい、鎌倉に幽閉される。頼朝は生まれてくる子を女なら助けるつもりだったが、うまれたのが男の子だったのでひそかに殺された。哀れな話である。

その静御前も共に蝦夷に渡り、さらに大陸に渡ってその子がテムジン、つまりジンギスカンになったというのだろうか。

子どもを殺させたのは頼朝ではなくて北条政子だという。そのことから私の母は北条政子が嫌いで、政子という名前も嫌いだといっていた。よほど静御前に哀れを覚えていたのだろう。

この石碑のある場所の向こうに義経寺があるのだが、雨が強くなったので傘をさしてまで行く気にならず、ここを後にした。

ここから津軽半島を一気に南下して、五所川原に向かう。ここには太宰治の生家があり、「斜陽館」として公開されている。

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斜陽館。

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中はとにかく広い。部屋がたくさんある。

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太宰治が愛用していたという黒マント。いわゆる二重回しというやつである。このあと外人さんが着せてもらって大喜びしていた。

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仏壇も立派である。

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こんな階段で二階に上がる。

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こんな洋間がある。

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この部屋は主に母親の部屋として使われたという。

この右から三枚目の最後の文字(落款は除く)が「斜陽」である。

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二階の廊下。

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庭を見下ろす。庭も立派だ。

このあと斜陽館の駐車場横の食堂で太宰治が好きだったというねまがり竹とわかめがふんだんに入ったラーメンを食す。煮干しのだしがよくきいた美味しいラーメンだった。

次に同じ五所川原にある立侫武多(たちねぷた)の展示館に向かう。これはすごかった。

竜飛岬


とにかく竜飛岬に着いた。

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竜飛岬は外ヶ浜町に属するのか。この地図の先っちょの小さな島が帯島である。

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岬から漁港を見下ろす。この岬のすぐ下あたりに階段国道の降り口がある。日本で唯一の階段の国道である。海の向こう、左手奥にちらりと北海道が見えている。

Dsc_4080 一番先端の帯島が抱きかかえるようにしているのが海峡亭。

帯島はその名の通り島だが、漁港からコンクリートでつながっている。帯島には義経伝説があると言うが、どういう話か知る機会がなかったので分からない。

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海峡亭に泊まる釣り人は、このうしろの岩山をよじ登り向こう側へ降りて磯釣りをする。岬を漁港まで降りてみる。

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漁港から岬を見上げる。あの高倉健主演の映画「海峡」で吉永小百合が身を投げようとして健さんに助けられたのはこの岬だったのだろうか。

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海峡亭まで言ってみる。しつこくここのことを書くのは、数年前この宿に泊まったからだ。まさに魚の絵が描かれている窓の部屋の左右に兄貴分の人と私が別々(私のいびきを避けるため)に泊まった。

夜明け前にイカ釣りの漁船があのたくさんの集魚灯を輝かせて港に櫛比していたのを、二日酔いの酔眼で眺めたことを思い出す。

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漁港の東端から東の方を見る。これは下北半島ではないかと思うがどうだろう。


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さらにすぐその先に太宰治の文学碑がある。小説「津軽」でこの竜飛が触れられているらしいが、読んだことがないから知らない。

この文学碑そのものかどうか知らないが、むかしは帯島側の駐車場にあったはずだ。そこには石川さゆりの「津軽海峡冬景色」の音楽が流れる歌碑もあったような気がする。いまはその歌碑は岬の上にある。

港では石川さゆりの歌声ではなく、海猫の鳴き声がしきりに聞こえて物寂しい気分にさせる。


2017年9月 1日 (金)

眺瞰台(ちょうかんだい)

津軽半島の西岸小泊を過ぎると一気に急坂を登る。ここから竜飛までは断崖であり、海岸を走る道路はない。登っても登ってもさらに上がある。その峠に眺瞰台という展望台がある。


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おお、ついに北海道が見えた。松前のあたりか。

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竜飛岬と北海道を一望に見る。

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眺瞰台の石碑。北海道と共に。

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こうして見れば、竜飛と北海道の近さが分かる。

津軽海峡を行く船がかすかに見える。
数年前、兄貴分の人と敦賀から日本海フェリーでこの竜飛沖をフェリーで通過したことを思い出した。

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南の方向に目を転じればかすかに岩木山が勇姿を見せている。独立峰はそれだけで美しい。天気がよければもっとよいが、見えているだけでも有難いことだ。

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こういう坂をひたすら登ってきた。向こうに見えるのは小泊岬か。

さあ坂を一気に下って久方ぶりの竜飛岬を訪ねよう。

同じであること

 いま養老孟司・名越康文『「他人」の壁』(SB新書)という本を読んでいる。このなかには、かねてから私が考えていたことがいくつも散りばめられていて、強く共感することが多い。

 私が、知っているということと分かることとは違う、ということに気がついたのはずいぶん昔の若いときである。真継信彦の『鮫』という本を読んで、無明という言葉を知った。『鮫』の続編が『無明』であるが、物語としては『鮫』の方が面白い。私はまさに無明のなかにいた。その無明であることを自覚した瞬間が、「人と人は違う」ということに気がついたときだった。自分が無明であると本当に気がついたとき、人は無明の世界から脱している。

 いま読んでいる『「他人」の壁』という本では、最後に「同じ」ということについて深い考察がなされている。A=Bが自明であるのは理念の世界の話である。人間の脳の約束事のようなものだ。そもそもAはBではない。子どもはそれを乗り越えてA=Bを理解して人間になる。動物はついにA=Bを理解することができない。

 名前とは何か。区別するための記号である。そのとき、猫という言葉は、この世の猫すべてを「猫」としてほかの種類の動物と区別する役割を果たす。そういう意味ではこの猫もあの猫もみな同じ猫である。ではこの猫とあの猫は同じか。違うのである。当たり前のこのことを誰でも知っているけれど、実は分かっていない。

 同じであるという概念が人間の世界の認識を進化させた。区別し、分類すること、同じものはひとくくりにすることの積み重ねが、言葉をつぎつぎに作りだしていったのだ。さらに等価という概念が交換を生み出した。この野菜一山とこの魚三匹が同じ価値であると互いに認めるから交換が成り立つ。ついにはお金というものが作られていく。すべての物はお金に換算することで価値が与えられていくことになった。お金で買えないものはないとまでいわれた。

 学生時代、生涯の友とまで思っていた友人と絶交した。きっかけは私にあるので慚愧に堪えないが、いまさら悔いても仕方がない。その彼と最初にはげしい言い争いになったのは、この等価ということに近いことだった。すべてのことにそれぞれに通用する物差しがあるはずだ、と私が主張したことに彼が反対したのだ。彼は私がすべて金に換算できるという意味を含めているように誤解したのかも知れない。このことはしかし絶交の直接の理由ではない。

 私が言いたかったのは、ものごとにはことごとく違いがあるのだから、その違いを明らかにすればそれぞれが観念的に自分の認識のなかで位置づけできるはずだ、と言うもので、まことに分かりにくい。誤解されるのも当然である。

 そのときに考えに考えて、人と人は違うということを本当に理解したのだ。多分その理解にはレベルが無数にあって、とにかく知っているだけという無明から、一段階上がったような不思議な思いがしたことを覚えている。たびたび書いているが、世界が一皮めくれて違うものとして見えた気がした。

 これは人に語っても分かってもらえないかも知れない。分かった人だけが分かることだから。だから養老孟司先生と名越康文氏が分かった上で語り合っているのを読むととても嬉しくもあり、うらやましくもある。私とは分かっていることのレベルが甚だしく違うけれど。

 「同じ」ことと「違う」ことについてもっと深く考えてみたいと思う。ただし、それは「意味」を考えることではないことをこの本では繰り返したしなめている。世界を意味で考えても不毛であると養老孟司先生は喝破する。「意味」こそ等価価値の変換に過ぎないことなのだから。ヴィトゲンシュタインが哲学について、言葉について限界を語ったのは、そこにあるのかもしれない。哲学がしばしば記号論的になるのも当然である。・・・・知らないで知ったかぶりで書いているので知っている人はひそかにあざ笑ってください。

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