映画・テレビ

2017年10月25日 (水)

映画『山猫は眠らない4 復活の銃弾』1911年アメリカ・南アフリカ

 監督クラウディオ・ファエ、出演ブランドン・ベケット、ビリー・ゼーン他。
 トム・ベレンジャー主演の『山猫は眠らない』はスナイパー映画の傑作であると思う。彼が主演して2と3も作られた。しかし彼が主演しない4以降(人気があるのでさらにこの続編も作られている)はあまり期待しなかったし、がっかりしたくなくて録画していたこの映画を観るのを後回しにしていた。

 スナイパー(狙撃手)は狙う相手から反撃を受けにくい長距離から敵を倒す。そのような場所を確保し、身を潜ませ続けてチャンスを待つためには想像を絶する能力が必要なのであるが、そのことは第一作で詳しく教えられている。

 この映画の主人公は彼の伝説のスナイパー、トーマス・ベケット(トム・ベレンジャー、この映画には登場しない)の息子、ブランドン・ベケット。内心では父を尊敬しているのであるが、まともな息子ならそうであるように父に反発して、才能があるのに普通の歩兵となり、国連派遣軍としてコンゴ国境近くにいる。

 国境を越えた先では反体制派の動きが活発になり、難民があふれている。多くの白人市民が退去勧告により避難しているのだが、頑として自分の農場から動かないベルギーの農場主がいる。ブランドンたちは彼を強制的に退去させるように命令されて国境を越える。

 拒否する農場主を何とか避難させることに成功したかに見えたそのとき、突然部隊が襲われる。次々に倒されていくのだが、どこにどれだけ敵がいるのか分からない。ついには農場主も命を失ってしまう。脱出のチャンスをうかがい思いきって動き出した部隊はついに全滅する。だがブランドンは負傷して死んだと思われて生きのびていた。

 彼を助けたのは地元で金持ち相手に狩猟ハンターをしている男だった。彼は軍にも反体制派にも金をつかませているので、特別扱いをされている。彼の助力もあって彼は生還することが出来たのだが・・・。

 傷を癒やしている彼をリチャード・ミラーという男が訪ねてくる。彼は父のベケットに狙撃の教練を受け、いまは親友であると名乗り、ブランドンに狙撃手にならないかとさそう。

 ブランドンは自分達を狙撃したスナイパーに復讐を果たしたいというつよい気持があった。そしてその襲撃に不審なところがあることも感じていた。

 やがて彼は再び国境を越える。そしてあの与えられた任務の意味とその背後にある黒い闇を知ることになる。その彼をなきものにしようと多数の部隊が迫る。さらにその後ろにはあのスナイパーが潜んでいた。

 日本では劇場未公開らしいが、映像は美しいし俳優の出来も悪くない。ストーリーにも筋は通っているから劇場で公開したらそこそこ客は入っただろう。正し『4』などとつけたら第一作を観た人しか観ないから違う放題にするほうがいいが。

 期待しなかった分だけ儲けもののおもしろい映画だった。

2017年10月22日 (日)

こういう報道は是か非か

 TBSの系列で昨夕報道された『報道特集』という番組で、障碍者を大量殺戮した相模原事件の犯人、植松聖との拘置所の面談の詳細を報じていた。

 なぜあんな犯罪を犯したのか、視聴者は知りたいはずだからその真実を犯人本人と面談して報じよう、というのが番組の主旨であろう。そこに私は異議がある。

 面談した記者はどうして犯人と面談しようとしたか、と問われて、彼の起こした事件は特殊だが、彼は特殊ではない、彼があのような事件を起こしたことには社会的な背景があるのだ、と答えていた。

 この記者の気持ちの底に、一般の人に障碍者を排除する気持があり、それを彼が正直に体現したのだ、という思いがあるのだとしたらとんでもないことである。

 たしかに障害者の施設を新設しようとすれば住民の反対運動が起こるだろう。しかしそれは社会が障碍者を排除しようとしているということと同義ではない。たしかに排除の気持があろうとも、人はそんなものはないように見せるくらいのたしなみを持っている。

 もし社会に障碍者を排除する気持があるから彼は特殊ではない、などという論理を許せば、そのようなたしなみによる歯止めがなくなり、事件は次々に起こるだろう。

 面談した記者の問いかけに答えて、犯人・植松聖の語る言葉が詳しく紹介されていた。これは植松聖の社会に対するメッセージそのものである。私から見れば歪みきった犯人の異常な世界観に基づくメッセージだが、これを見る多数の人々の中には、彼と同様の世界観の人物が稀に存在することは間違いない。しからばこの番組は、彼からそのような人々へのメッセージの伝達役を果たしている。それを受け止めるのが十万人に一人でも影響は甚大である。

 なるほど、そう考えるのは正しいことなのだ、と彼のメッセージを受け取っている人間が必ずいる。その中のひとりでも同様な行為に励起されて行動を起こしたときにこのような番組を報じた人たちはどう責任を感じるのだろうか。

 恐らく何も感じないだろう。何しろ彼らにとって悪いのは社会であり、少しも特殊ではない犯人植松聖はたんなるその体現者であり、考え方によっては社会の被害者なのだから。

 恐ろしい番組を観た気がする。拘置所はこういう取材をどうして許したのか理解できない。そう思う私はおかしいのだろうか。

 被害者自身は障碍者であるから、もともとメッセージを発することは出来ないし、これからも決して発することは出来ない。

2017年10月21日 (土)

映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』2015オーストラリア・アメリカ

 監督ジョージ・ミラー、出演トム・ハーディ、シャーリズ・セロン、ニコラス・ホルト他。

 マッドマックスシリーズ三部作は衝撃だった。ディストピアの近未来を描いたSF小説や映画は数々あるが嫌いではない。カルト映画の多くはこのタイプだ。あの『ブレードランナー』にしてもその範疇であろう。原作を書いたフィリップ・K・ディックがそもそもそういう世界を描く作家だ。そういう世界というのは、未来が明るく豊かで平和でしあわせというわけではない世界だ。

 あのSF小説の名作、オルダス・ハックスリーの『素晴らしき新世界』にしても、ジョージ・オーウェルの『1984年』にしても、ともにディストピア世界が描かれている。現実の世界を見ていても未来がバラ色だなどと、少し前までの人ならいざ知らず、脳天気に信ずるものなど今はあまりいないだろう。

 明るい未来であるべきだ、という人たちが左翼的な思考の人たちで、悲観的な人こそが現実的な保守主義者なのかもしれない。先進国で少子高齢化が進むのは、未来に不安があるからであることはみな薄々気がついている。世界の未来は暗いと思っているのである。

 今回観たこの映画はシリーズの第四作目に当たるが、さすがにメル・ギブソンもこんなど派手なアクションシーンはもう出来ないようで、今回のマッド・マックスを演ずるのはトム・ハーディである。監督はいままでどおりジョージ・ミラー。

 いままでのシリーズのなかで一番好きなのは『マッドマックス2』である。たぶんこのシリーズのファンの多くがそうだろう。バイオレンスシーン満載の『マッドマックス2』は傑作である。その後半の暴走シーンのハイライトが、最初から最後までこれでもかとばかりに盛りだくさんなのが今回の『怒りのデス・ロード』である。

 世界観としては第三作の『サンダードーム』が採り入れられている。人はコロニー、つまり社会を形成しないと生きていけない。そこからはみ出しているのがマックスだが、そのマックスがコロニーの歪みを結果的に正すことになるのが皮肉なのであり、そもそも英雄譚というのはそういうものなのかもしれない。

 これは青い鳥、ここでは緑なす地、を求めて旅立つが実はそれは・・・。というお話でもある。

 典型的な暴力映画でありながら、どことなく哀愁があるのは、シャーリズ・セロン扮するフュリオサという女闘士の存在があるからか。しかし片腕という設定であり、片腕にしか見えない。映像を操作しているのだろうが見事としかいいようがない。特撮技術の進歩は目を見張るものがある。

 巨大な砂嵐のシーンなど、見所満載で、バイオレンス映画が余程嫌いでなければ楽しめる。これは良く出来たお伽噺なのだ。

2017年10月17日 (火)

映画「ザ・シューター 極大射程」2007アメリカ

 監督アントワーン・フークア、出演マーク・ウォールバーグ、マイケル・ペーニャ、ダニー・クローバー他。

 マット・デイモンと同様サル顔のマーク・ウォールバーグは好きな俳優である。原作はスティーヴン・ハンターのスワガー・シリーズ三部作の一つ『極大射程』。スワガーシリーズはこの『極大射程ともう一作読んだはずだが題名を忘れた。スワガーシリーズは好評だったので、さらに新作がいくつも発表されているらしいが読んでいない。

 スナイパーの話といえば、単身でマフィアに戦いを挑むマック・ボランシリーズが有名で、私も10作目くらいまで読んだが、マンネリ化してきたのでそこでやめたがずっと続いているらしい。今回のラスベガス事件にこの辺の影響が全くないといえないが、アメリカ人の銃に対する感覚が多少分かる。

 狙撃手として戦地にいたスワガーは予期せぬ事態により戦地に置き去りにされる。行動を共にしていた親友をそのときに失うが、辛くも脱出する。除隊したスワガーは山中に一人で暮らす。そこへジョンソン大佐と名乗る将校が訪ねてきて、ある依頼をする。

 この辺の出だしはなんとなくシュワルツェネッガーの「コマンドー」を思い出させるが、ここでは闘いはない。依頼というのは、大統領の暗殺計画の情報があり、スワガーに、狙撃されるならどこなのか調査して欲しいというものだった。政府の依頼は断りたい気持だったが、国のためといわれると断れないスワガーであった。

 そして可能性のある場所を特定したスワガーは現場に立ち会うことになる。万全の警備体制の中、推定通りの場所から狙撃が行われるが、撃たれたのは大統領ではなくすぐ側にいたエチオピアの大司教だった。

 なぜ狙撃を阻止できなかったのかスワガーが不審を覚えたとき、一緒にいた警官が突然スワガーに銃弾を浴びせる。瀕死の重傷を負ったスワガーは必死で逃げる。彼は狙撃犯として追われる。罠にはめられたことに気付いたスワガーはとにかく生きのびるために死力を尽くす。その逃走のシーンはノンストップで迫力満点である。

 追われたスワガーの反撃が始まる。ここからは胸のすく展開が続く。復讐譚はおもしろい。ましてや世界に指折り数えられるような狙撃手が知能を駆使して反撃するのである。罠にはめた組織は大量の部隊を繰り出してスワガーを追う。

 組織の背後にいる黒幕を追い詰めていくのを見ているのは痛快である。しかし正義のためと盲信しておかしな人間が社会に復讐を始めたらどうなるのか。スワガーが常に理性的であることは幸いであるが、そうでない人間は山ほどいる。

2017年10月15日 (日)

好みではない

 映画「GOEMON」2009年を観た。これも処分しようとした録画ディスクの中から拾い出したものだ。

 監督・紀里谷和明、出演・江口洋介、大沢たかお、広末涼子、ゴリ、奥田瑛二、要潤、他豪華出演陣(有名どころだけをあげていってもきりがないほどである)。監督の紀里谷和明自身も明智光秀役で出演している。

 安土桃山時代が時代背景に設定されているが、そこに紀伊国屋文左衛門(江戸時代のひとである)が突然登場したりする。衣装もセットも豪華絢爛、しかも時代考証など一切無視しているからハチャメチャである。そもそも現実世界ではなく、異世界の話になっていると想定すればこれはこれで楽しめないことはないであろう。

 こういう映画は本当は嫌いではない。そしてこういう映画に夢中になる人も少なからずいるだろう。

 しかし観終わった印象からいえばがっかりである。私の好みではない。荒唐無稽の中に何か筋が見えればいいのだが、何も感じないのである。ただ豪華キャストを使い(例えば貧民の少年の病母役で出演する鶴田真由は誰だか分からない汚れた姿で登場し、その直後に斬り殺されてしまう。出た瞬間に目がきらりと光って、あっ鶴田真由だと思う間もなくである)、金を使いまくって特撮を駆使し、歴史を無視し(しかもときどき帳尻あわせをするからせわしない)、人はバッタバッタと死に、血しぶきは飛び散り・・・。

 このあとこの紀里谷和明という監督の作品はほとんど作られていないようである。この映画もそれほど流行らなかったのだろう。なんとなく見覚えのある名前だと思ったら、宇多田ヒカルの元夫なのであった。

 霧隠才蔵役の大沢たかおは好い。江口洋介は飄々とした役をするのに向いていない。

 この物語に司馬遼太郎の『梟の城』がネタになっていると感じたが、どうか。

2017年10月14日 (土)

映画「センター・オブ・ジ・アース」2008年アメリカ

 監督エリック・ブレヴィブ、出演ブレンダン・ブレイザー、ジョシュ・ハッチャーソン、アニタ・ブリエム他。

 子どものときからのSF少年で、ジュール・ベルヌの『海底二万哩』や『地底探検』、コナン・ドイルの『失われた世界』などを始め、ハインラインやクラークの少年向けの小説を読みまくった。SFの話を始めると長くなるのでここまでとする。

 この『センター・オブ・ジ・アース』という映画は、『地底探検』で描かれた世界を映像化しようとしたものである。ベルヌの『地底探検』の物語は真実であると信じる探検家マックスが消息を絶って10年、その弟トレバー(ブレンダン・ブレイザー)とマックスの息子(ジョシュ・ハッチャーソン)が、マックスの残した資料から地底への入り口がアイスランドの火山であることを突き止める。

 マックスと共同研究をしていた博士がアイスランドにいたのだが既に死去しており、その娘(アニタ・ブリエム)を案内人にして、火山へ向かう。

 こうして地底に誘われた彼らが地底世界で体験する物語がこの映画なのだが・・・荒唐無稽ここに極まれりの映像が次から次に繰り広げられる。あまりのばかばかしさに、却って腹立ちが突き抜けてしまい、ばからしさを楽しむことになった。でたらめもここまで徹底すると素晴らしい。そういう場合にはブレンダン・ブレイザーという俳優は適役である。

 ブレンダン・ブレイザーもジョシュ・ハッチャーソンも嫌いなタイプの俳優である。ジョシュ・ハッチャーソンをどこかで見たことがあるなあ、と考えていたら、「ハンガー・ゲーム」にでていたことを思い出した。この映画のときにはまだ少年だったのだ。アメリカ映画で描かれる少年少女は怒りを覚えるほど自分勝手で非知性的であり、たいてい廻りに迷惑をかけ倒す。多分実際にそうなのだろう。この映画のジョシュ・ハッチャーソンはそれほどひどくない。ひどくないけれど、見るからに生意気な顔をしているからそれで十分なのである。

 この映画には続編「センター・オブ・ジ・アース2」があり、そちらはだいぶ前に見ている。そのときにも同様の感想を持った。だから前作が見てみたかったのだが、捨てようと思ったディスクの中に録画があったのである。

 これで心置きなく廃棄することが出来る。

2017年9月24日 (日)

映画「ダーク・グラビティ」2013年カナダ

 監督ジェフリー・ランドー、出演ロビン・ダン、エイミー・ベイリーほか。

 メチャクチャである。とにかく科学的な装いをしながら科学的なところはかけらもない。これほどでたらめなものをよく恥ずかしくもなく作るものだと思うが、放り出さずに最後まで観てしまった。

 なにしろヒッグス粒子加速器である。そもそもヒッグス粒子とはなにか、まだ未解明なものを加速するなどということがどうして可能なのか、加速するためには捕捉しなくてはならないが、捕捉できないから観測が困難な粒子をどうやって捕捉し、どうやって加速するというのか。SF仕立てなら少しくらいは屁理屈を付けてみろ。

 科学的に無知だからこんな映画を作ってしまったわけではないようだ。とにかくタイムシフトによるパラレルワールド発生の理屈づけをしたかっただけなのだろう。しかし元の世界といまの世界の両方の記憶のある者がいるということがどうしてなのか分からない。ある人は過去の記憶が全くなく、ある人は違う記憶を持ち、悪の親玉は両方の世界の明確な記憶を持っているというのがあまりにもご都合主義である。不思議なことに世界でただ独り、主人公だけは過去の記憶しか持たないのだ。

 主人公は科学者でこの粒子加速器の主要メンバーらしい。その研究の資金を提供したのが悪役の資本家だが、その資本家には別の目的があったのである。加速器のフル稼働の実験の最中に事故が起こる。その前に会社をクビになった男から主人公の携帯に再三の警告が入るのだが、主人公はかたくなにそれを知ることを避け続ける。まるで事故が起こることを知りながら知るまいと努力しているようである。そして事故が起きて世界が一変する。多分物語が始まる前に事故が回避されては物語が始まらないから、監督に警告を受け取らないように指示されていたのだろう(冗談ですよ!)。

 悪者は金儲けのためにこの装置を悪用したのであるが、その結果生じた世界は金など儲けようがない荒廃した世界になっているのにそこに何の矛盾を感じてもいないようだ。そもそも悪用するには主人公よりも装置に詳しい知識を持たなければおかしいのであるが、どうもそうであるらしい。それなら勝手に独りで実験すればよかったのである。それにしてもあんな世界でどうやって儲けようというのだろうか。そもそも世界が破綻しているのである。世界を破綻させることが目的の悪者なら分かるけれど、目的は金だというからわけが分からない。

 もちろん最後は主人公の大活躍により(というよりほんのちょっとだけ悪者と殴り合うだけだが)世界は元の世界に戻り、家族の絆を取り戻すのである(このパターンにはうんざりする)。事故によって起こる世界の変化ならそれは不確定な結果を生むのであって、どうしてすっかり元通りになるはずがあろうか。それでも元通りならば、この物語全体がそもそも主人公自身の妄想によって生み出されたものだというほうが筋が通る。映画の中でも主人公が精神科の医師にカウンセリングを受けている。医師の言う通り、彼が異常なのである。私の妄想ではないのだ。

 多分これは精神病院の中のある患者の描いた異常世界なのであろう。それなら科学的に矛盾だらけでも当然なのである。それならこれは妄想映画の傑作である。カナダ映画畏るべし。

映画「モーガン プロトタイプL-9」2016年アメリカ・イギリス

 監督ルーク・スコット、出演ケイト・マーラ、アニャ・テイラー=ジョイ、ミシェル・ヨーほか。

 遺伝子操作で新しい種の人間を生み出す研究所で事故が起こる。モーガン(アニャ・テイラー=ジョイ)と名付けられた新種人間の少女が研究員に襲いかかって傷つけたのである。そこへこの研究を進めている企業から緊急事態対処のためにリスク管理官のリー・ウェザース(ケイト・マーラ)という女性が派遣されてくるところから物語は始まる。

 事態を確認するための心理学者のシャピロ博士の到着が遅れるとの連絡があり、リーは独自に調査を開始する。この研究所が何をしているところなのか、その研究の過程でなにがあったのか、事故はどうして起こったのかが次第に明らかにされていく。研究員たちへの聴き取りで、モーガンは研究所の人々に愛されており、彼らは皆今回の事故に対してモーガンに同情的であることが分かる。 

 やがて博士が到着、モーガンに対して博士の聴き取りが始まる。さまざまな質問に対して答えていくモーガンだったが、博士はそのそつのない回答では彼女の本質が見えないと判断したのか、次第にモーガンを混乱させる質問へエスカレートしていく。無表情で生気のない様子だったモーガンの中でなにかが起こっていることを感じさせるが、博士はそれに気がつかない。

 突然その悲劇は起こる。

 緊急事態に対処するための手順は決められており、所長であるルイ・チェン博士(ミシェル・ヨー)の指示でそれが実行されるはずだったが・・・。

 それからモーガンの暴走が始まり、リーの必死の追走が始まる。リーは過去にも同様の事態に遭遇したことがあることがほのめかされる。ついにモーガンを追い詰めたリーだったが、身体能力に上回るモーガンの反撃で苦戦する。絶体絶命となったリーはどうするのか。

 ラストにプロトタイプL-9の意味が明らかになる。このことに気がついているとラストもなんとなく予想がつくが、気がつかないほうが衝撃の事実に驚くという楽しみが増すであろう。
 
 モーガン役の少女の無機的な表情が化粧とはいえ不気味である。もともとは表情豊かな可愛い少女だったことが過去の映像で明かされていて、皆がモーガンを愛している理由も分かるのだが、自分が人間ではなく研究生物であるということを知るほどに、彼女の中でなにかが増殖し、なにかが壊れていったことが想像される。これは普通の人間が閉じこめられて実験材料にされたとしても同じ反応を示すのではないか。

 リー役のケイト・マーラはいろいろな映画で見たことがあるが、どんな映画のどんな役だったかはっきり思い出せない。調べたら、ルーニー・マーラのお姉さんだという。ルーニー・マーラといえば、あの「ドラゴン・タトゥーの女」のリスベットを演じていた女優だ。なるほど強烈なイメージのある姉妹である。

 ミシェル・ヨーが脇役で登場している。ミシェル・ヨーといえば「グリーン・ディスティニー」での印象が忘れられない。知的なイメージのこの女優が活劇を演ずるのに驚いたものだ。「グリーン・ディスティニー」の意外な女優といえばチャン・ツィイーで・・・と話を拡げていくときりがないのでここまでとする。

 まあまあおもしろい映画であった。

2017年9月23日 (土)

伊豆 天城越え

 NHKBSで再放送の「新日本風土記・伊豆 天城越え」を観た。2012年11月放送のものだという。

 最初に川端康成の『伊豆の踊子』の舞台としての天城越えが紹介されたのは妥当なところだが、そこで挿入された映画が高橋英樹と吉永小百合出演のものだった。何度もリメイクされているけれど、私のイメージでは三浦友和と山口百恵の出演したものである。この映画が封切られた当時、私は女性の多い映画館に行くのが照れくさくて、高校生だった妹(山口百恵と同学年である)を連れて観に行った。

 このときの映画で踊り子である山口百恵とおなじ一座の、病弱な少女役を石川さゆりが演じていたことをご存じだろうか。その石川さゆりが、のちに「天城越え」という歌で一世を風靡したことに私は深い縁を感じるのだが、誰よりも石川さゆりがそれを実感しているのではないか。

 番組では「天城越え」の歌の作曲をした弦哲也が、作詞家の吉岡治の思い出とともに歌を作った当時の話を述懐していた。いい歌である。以前石川さゆりがこの歌の歌詞を見て、強い抵抗を感じた話をしていた。ヒットしたのが信じられなかったようだ。しかしそれだけ思い入れもあるだろう。彼女には山口百恵に対するライバル心も人一倍あっただろうし、映画のときに脇役を与えられた記憶も残っていたと私は想像するのである。

 ところで歌の「天城越え」は、不倫の歌だとか、セックスの歌だとかいう解釈があるらしいが、私は松本清張の小説『天城越え』を下敷きにしていると確信している。しかし番組はそういう解釈を取らないようであって、最後まで松本清張の小説を取りあげることがなかった。番組のタイトルと小説のタイトルが同じなのである。言及しないことに私は不満だった。

 松本清張の『天城越え』はテレビドラマになり、少し後に映画化された。天城越えをする少年が出会う女を演じたのが、ドラマでは大谷直子、映画では田中裕子だった。私はNHKのドラマのほうが感情移入した。あのときの大谷直子が忘れられない(そういえば先日観たドラマ『人質の朗読会』で久しぶりに大谷直子を見たことを思いだした)。歌の「天城越え」にこの女の情念が歌い込まれていると考えると歌詞の意味が胸に響くのだが、新日本風土記では松本清張の小説に言及しないのが不満なのである(しつこいな)。誰も関連を言わないから私の勝手な解釈なのだろう。

 若い頃同僚達と伊豆の下田へ旅行に行ったのだが、あいにく私だけ急な仕事で下田へ向かうのが夜中になった。真夜中に車で峠越えをしたら、まったく灯りがない。月もなかったから真の暗闇である。それがめずらしくて、車を停め、真っ暗闇の山の中で外に出てみた。シーンという音が耳に聞こえたあの晩のことをいまでも思い出す。

 一度歩いて天城越えをしてみたいものだと思いながら、ついに果たせていない。半日あれば越えることが出来るそうである。行こうと思えば行けるのだが、さて、もう少し若いときだったらなあ、などと自分に言い訳しながら番組を観ていた。

2017年9月18日 (月)

映画「クリムゾン(2015)」2015年アメリカ

 監督シェルドン・ウィルソン、出演ステファニー・ハント、サラ・ダクディルほか。

 ホラー映画は好きではないのについ観てしまう。三流カルトのホラーには突っ込みどころが多くて、いちいちここが変だ、台詞が陳腐だ、などと独り言を言う(さすがに口には出さない・・・いまに声に出すようになる気がする)のが実は楽しいのかも知れない。

 嵐のハローウィンには恐ろしいことが起こり、たくさん人が死ぬ、という伝説のある島へ三人の姉妹が渡ろうとしている。両親を交通事故で失い、頼るのは島に独りで暮らす叔母だけだったのだ。一番下の妹エマは両親と車に同乗していたが、奇跡的に助かっている。そのとき両親が事故で炎上した車の中で焼かれていくのを目の当たりにして精神を病んでいるらしい。その治療のためにも叔母を頼るしかないのである。

 明日はハローウィンである上、いままさに嵐がやって来ようというときに、フェリーで島へ渡ろうとする三人を見た若者が、いま島へ渡るのはやめたほうがいい、と警告する。何かを知っているらしい。一番上の姉サラはしっかり者だが支配的である。真ん中のマーリーは直感で行動するタイプで、島へいくのはいやだといいだすのだが姉のサラに押し切られる。いつの間にかエマの姿が見えなくなる。彼女が問題(つまり足手まとい)であることが分かる仕掛けである。隠れているときに恐怖に耐えかねて叫んでしまうタイプだと分かる。実際にラスト近くで魔物を引き寄せてしまうことになる。

 島に渡ると人影が見当たらないが、彼女たちを見ている視線を感じる。島の人びとは息をひそめて恐怖の時間をやり過ごそうとしている気配である。しかしこの時すでに恐ろしいことがつぎつぎに起こっていたのだが、彼女たちは知らない。

 彼女たちの車が叔母の家の近くで突然ガス欠を起こす。しかも再びエマの姿が消える。エマには不思議な能力があるらしい。夢で過去や未来が見えてしまうらしいのだが、それをうまく言葉にできない。そのために不可解な行動をとるのだろう。なにかの気配を感じてパニックになる姉妹だが、ようやくエマを見つけて叔母の家に向かう。

 そこで叔母の車を見つけた姉のサラが見たものは、眼をえぐられ、血まみれになった叔母の死体だった。あわてて叔母の家に逃げこむのだが、そこへやはり血まみれで命からがら逃げてきた女が転がり込んでくる。なにかが起きている。

 こうして恐怖が高まっていくのだが、その元凶の正体が登場してしまうと恐怖は消滅する。えたいが知れないから怖いのである。

 こうして三人は逃げ惑うことになるのだが、島には死体が累々、生き残ったわずかの人も生きのびるのに必死なために却って恐怖を呼び寄せていく。果たして三人姉妹はハローウィンの終わるまで生きのびることができるか。彼女たちに迫るものを倒すことができるのか。

 しかし気がついてみたら嵐がやって来ないのである。雲行きの怪しさはずっと漂っているのに雨すら降らない。嵐のハローウィンに事件が起こるという伝説は嘘だったのか?多分俳優たちが雨に濡れるシーンを嫌がったのであろう。
 
 伝説と魔物の姿がまったく整合性がないのもいただけない。おかげで怖くないホラーを観ることになって、いろいろと突っ込みどころ満載の映画を楽しませてもらった。カルト映画にしては映像と俳優の演技はそれほどひどくなかったのは救いである。

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