じっくりと楽しみながらページを繰っていた、奥野信太郎『藝文おりおり草』(東洋文庫)と『奥野信太郎随想全集第五巻』(福武書店)を読了した。読了してしまうのがもったいないと思う本には滅多にお目にかかれないものだが、この二冊はそういう本だった。
この二冊に書かれているのは主に著者が昭和11年ころに北京に滞在していた時代と、そのあと北京を再訪して滞在した昭和19年から終戦後に帰国するまでに交流のあったさまざまな人たち、そして彼の特にのめり込んでいた当時の北京の演劇について、そして北京の四季の風物である。
全集の方は多少ルビが振られているが、東洋文庫の方はルビがない。まったく読めない字もたくさんあるが、それを気にしていたら読み進めない。しかし慣れてくれば、漢字の読みなどわからなくても意味がぼんやりと分かってくるのが漢字というものだ。
そうして著者の目を通して北京の風物が、そして彼の交流のあった人々が、その人が座る部屋の空気や調度、そして背景が浮かび上がってくる。それほど文章が映像的なのである。映像的なのは確かな目と記憶があってこそで、著者のその能力は人並み優れている。その文章に誘われ、時空を超えて私も北京を彷徨った心地がする。
両方の本に重複する文章も二三あるが、それを飛ばさずに読んだ。
その重複する文章の一つに『詩人黃瀛(こうえい)のこと』がある。黃瀛は著者の友人であり、母は日本人で、昭和初期に日本語で詩集も出版されており、巻頭の辞を黃瀛の尊敬する高村光太郎が寄せている。黃瀛は後に国民党軍の将校になるが、それでも著者との厚い交遊は変わらない。
その黃瀛からの最後の手紙は昭和12年5月12日、南京からのもの。この年の7月に盧溝橋事件、ここから日中は全面戦争に突入、12月に、あの南京事件があった。
長い文章の最後の最後の部分、黃瀛からの最後の手紙と奥野信太郎先生の結びのことばを引用する。
「ご無沙汰してをります。隊本部だけ郊外へうつりました。御近況如何ですか、此頃は忙しいのでまるで閑暇がなくこの間は自動車衝突でもう少しのところ命を失ふところでした。南京は野玫瑰(はまなす)と苺の季節、一寸私も南京のよさを見返してをります。週末には南京へ出かけてゆつくりおちつきます。電影はそちらより(筆者註北平を指す・そのとき著者は北平、つまり北京にいた)早く眼にするけどこの頃電影にも興味なく周囲が水なので魚釣りに一寸腕を見せます。大きな魚が釣れましたかと問われて北叟笑む(ほくそえむ)ような魚釣りではなくほんとうの太公望ですから御安心下さい。私は此頃全然禁酒、煙草だけは一日にチェスタアフヰルド二箱、それも動いてる故かのみ切れません。洋灯(ランプ)の夜になった故か読書慾が可成です。この頃は年の功か亀の甲かとにかく活躍もしません。もしもお会ひするような場合があればそれこそ一時に爆発するでせう。そちらも大分物騒のやうですがエライ人にまちがはれないやうに御注意下さい。世の中が激しいどんでん返しをして私なんか呆然としてをります。私は近いうちに五十日ほど方々をぶらぶらします。お手紙は隊宛に下さるように。」
この手紙にもある通り、彼が、多分公用と察せられる五十日ほどの旅行に出たとすると、おそらく中日事変は彼の南京帰来を待つか待たずに勃発した日数の勘定になる。あれほど筆まめに書信を認(したた)めた彼から、ふっつり何の音沙汰も無くなってしまうと、私は実に不思議な気がする。しかしその後はっきりと敵人となった以上、そのことは少しも不思議はないはずであった。
繰り返すが奥野信太郎先生は終戦のとき北京にいた。帰国したのは確か昭和21年になってからである。そのあとたびたび中国にも行き、中国の文人たちとの交流も続いたが、ついに黃瀛の消息を知ることができなかった。さらりとした結びのことばのなかに、彼の友に対する切々とした思いが伝わってくる気がする。もちろん戦争に対する思いは言わずもがなである。
これらの本の中に魯迅についても書かれていて、触発されてちくま文庫の魯迅文集を揃えた。欠巻だった第二集は当初の筑摩書房の単行本を入手、先生のお薦めであり、特に読みたかった『朝花夕拾』はこの巻に収められている。